毎月口座から引き落とされる保険料を、「仕方がないものだ」と半ば諦めながら払い続けていませんか。生命保険、火災保険、職場の団体保険……気づけば家計のかなりの部分が保険料に消えています。しかも歯科保険は「肝心の治療には使えない」し、ペット保険は「高すぎて逆に損をしているのでは」という疑念が拭えない。なぜ保険という商品はこれほどまでに不満だらけなのか。その答えを誰かに教えてほしいと思ったことは、一度や二度ではないはずです。
実は、その不満には明確な経済学的理由があります。スタンフォード大学・MITの経済学者3名が著した『ヤバい保険の経済学』は、難解な数式を一切使わず、歴史的なエピソードと日常の疑問だけを武器に、その謎を痛快に解き明かしてくれる一冊です。読み終えたとき、保険への見方が変わるだけではありません。「なぜ部下の本音が見えないのか」「なぜ会議での発言がうまく伝わらないのか」という、日常のコミュニケーションの謎にまで、光が差し込んでくる感覚があります。
「保険はブロッコリーと同じではない」――本書の出発点となったこの一言が、市場の仕組みを超えて、人間関係の本質まで照らし出してくれます。今回は、本書の核心である「選択市場」という概念を中心に、その驚くべき内容をご紹介します。
ブロッコリーと保険は根本的に違う――選択市場とは何か
本書が生まれた直接のきっかけは、アメリカの最高裁判所でのやり取りでした。「政府が国民に医療保険の購入を強制できるなら、ブロッコリーの購入も強制できるのではないか」と、ある判事が発言したのです。著者たちはこの発言に衝撃を受けます。保険とブロッコリーは、まったく性質の異なる商品だからです。
スーパーでブロッコリーを売る店員は、買い手が誰であるかを気にする必要がありません。売れた分だけ利益になるからです。しかし保険の世界では、「誰が買うか」が死活問題になります。なぜなら、保険を最も強く欲しがるお客は、最もお金がかかるお客だからです。
この特性を持つ市場を、著者たちは「選択市場」と名付けました。買い手は自分のリスクについて深い自己認識を持っている一方、売り手はその情報を完全には知ることができません。この情報の格差が、市場をゆっくりと、しかし確実に崩壊へと追い込んでいきます。著者たちが「死の螺旋」と呼ぶ現象です。
航空会社を破綻寸前にした夢のパス――AAirpassの悲劇
選択市場の恐ろしさを描く最初の事例として、著者たちがあえて保険以外の商品を選んだことが印象的です。それが、1981年にアメリカン航空が売り出した「AAirpass」です。
25万ドルを支払えば、生涯にわたってファーストクラスに無制限で乗れる、というパスでした。経営陣は、富裕層がステータスシンボルとして購入し、月に数回程度利用するだろうと見込んでいました。しかし実際にパスを買ったのは、毎日のように複数都市を飛び回る人々でした。一部の購入者は海外往復を繰り返し、パスの価値を極限まで引き出したのです。
損失を悟った航空会社は、価格を100万ドルに引き上げます。しかしこれが事態をさらに悪化させました。値上がりでたまに使う程度の人は離れ、どれだけ高くても元が取れると計算できる超高頻度利用者だけが残ったからです。これが逆選択の典型です。
最も高い対価を払う意思がある人が、最もコストのかかる人だった――この矛盾が選択市場の本質を鮮やかに示しています。
存在できなかった保険――離婚保険が消えた理由
「なぜ特定の保険が成立しないのか」という問いに対し、著者たちが挙げるのが「離婚保険」の事例です。離婚時の弁護士費用や生活の立ち上げ資金をカバーすることを目的に考案されたこの保険は、商品化されてほどなく姿を消しました。
失敗には2つの構造的な原因がありました。第一に、すでに結婚生活が破綻しかけていると自覚しているカップルだけが加入した(逆選択)。第二に、保険金が入るとわかっていると、些細な理由で離婚を選ぶ動機が生まれてしまった(モラルハザード)。
保険は、予測できないリスクを多くの加入者で分かち合うために存在します。しかし、当事者にとってほぼ確実に起きる出来事、あるいは意図的に起こせる出来事に対しては、保険は経済的に成り立ちません。「ある商品がなぜ市場に存在しないのか」という問いに、経済学が明確な答えを与えてくれる瞬間です。
歯科保険が「使えない」のはわざとだった
日本でも多くの人が感じる「歯科保険の補償内容の貧しさ」。インプラントや根管治療といった高額な治療には使えず、定期クリーニングしかカバーされない。なぜこうなるのか、本書は鮮明に答えます。
経済学者マリカ・カブラルの研究によると、従業員がより手厚い歯科保険プランにアップグレードした直後、歯科治療費が60%も急増するというデータがあります。つまり、高額な治療を近い将来に必要としていると自覚している人だけが、手厚いプランを「選択」するわけです。
この強烈な逆選択に対抗するため、保険会社はあえて補償範囲を絞り込みます。高額な治療を対象外にし、誰でも使う低コストな予防処置だけをカバーする――これは欠陥ではなく、市場崩壊を防ぐための合理的な防衛策なのです。
ペット保険も同じ構造です。愛犬・愛猫が重病になった際にどんな高額医療費でも払うという飼い主ほど早期に加入し、そうでない飼い主は高い保険料に尻込みします。結果として保険プールには高額治療を要するペットだけが集まり、保険料は高止まりを続けます。消費者の不満は、情報の格差が生み出した必然の結果なのです。
年金を買う人が長生きする理由――情報の非対称性の本質
「老後資金が尽きるリスクへの備え」として個人年金があります。しかし、経済学者ジム・ポテルバらの研究では、年金購入者の死亡率は同年齢の一般人口の半分に過ぎないことが判明しています。
これはつまり、「自分は確実に長生きする」と確信している人だけが年金を買っているということです。家系や生活習慣から長寿を予感できる人が選択的に加入するため、保険会社は支払期間が長くなると見込んで保険料を高めに設定せざるを得ない。その結果、平均的な寿命の人にとっては、年金は「割高で魅力のない商品」になってしまいます。
ここには選択市場のパラドックスが凝縮されています。買い手が自分のリスクを正確に知っているほど、売り手との情報の格差は広がり、市場はうまく機能しなくなるのです。
健康な人に補助金を出す逆転の発想――交差補助というロジック
逆選択の悪循環に対し、政府はどう介入すべきか。著者たちが導き出す答えは、直感に反するものです。「病気の人を支援するのではなく、健康な人に補助金を出して保険プールに引き留める」というロジックです。
少し具体的に見てみましょう。病気の人の医療費が月100ドル、健康な人が60ドルの市場があるとします。保険料を80ドルに設定すると、60ドルの価値しか感じない健康な人は離れてしまいます。しかし政府が健康な人に10ドルの補助金を出して実質負担を70ドルにすれば、健康な人も加入し続けます。保険会社は健康な人から20ドルの利益を得て、病気の人の損失20ドルを補填できる。プールは維持され、全員が保険を持てるようになります。
この仕組みは「交差補助」と呼ばれます。問題を抱えた当事者ではなく、問題のない人を支援することで全体のバランスを取るという発想は、職場のチームビルディングにも通じるものを感じさせます。部下が孤立しているとき、その部下を直接引き上げようとするよりも、周囲のメンバーとの関係性を整えることで、チーム全体が機能し始める――そんな間接的なアプローチの有効性を、経済学が裏打ちしてくれているようにも読めます。
「情報の格差」は職場にも家庭にも潜んでいる
本書が私たちに教えてくれる最も重要な洞察は、「情報の格差が人間関係の根幹にある」という事実です。保険市場では、買い手が自分のリスクを知っていて売り手が知らない。しかし同じ構造は、至るところに存在します。
たとえば部下との関係。部下は自分のスキルや限界、本当のやる気をどれほど持っているかを知っています。しかし上司の側から見えるのは、業務の成果や会議での発言だけです。この格差を埋めようとするほど、部下は警戒し、本音をより深く隠す――AAirpassの値上げが事態を悪化させたのと同じ構造です。
家庭でも同じです。妻が何に悩んでいるか、子どもが何を感じているか、完全にはわからない。問い詰めるほど相手は殻に閉じこもる。選択市場のロジックを知ると、「なぜコミュニケーションはこれほど難しいのか」という問いへの、一つの明快な答えが見えてきます。
情報の格差そのものをなくそうとするのではなく、格差があることを前提に関係を設計する。そのヒントを、本書は惜しみなく与えてくれます。

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