「百年続く組織の、人の育て方」——萬代悠/三井大坂両替店/江戸の人事戦略

部下が思うように動いてくれない。信頼関係を築こうとしているのに、なぜかよそよそしい距離感が消えない。あなたが管理職として抱えるその悩みの根っこには、もしかすると「人を育てるとはどういうことか」という問いへの答えが、まだ見つかっていないことがあるのかもしれません。

成果主義、ジョブ型雇用、短期評価――現代の職場では、そういった言葉が飛び交い、組織と個人の関係はどんどん短期化・取引化されています。そのなかで管理職として部下と長期的な信頼を築こうとすると、どこか時代に逆行しているような感覚を覚えることもあるでしょう。しかし、本当に人と組織を強くするのは、短期のインセンティブではなく、もっと深いところにある仕組みではないでしょうか。

萬代悠著『三井大坂両替店 銀行業の先駆け、その技術と挑戦』は、江戸時代の金融ビジネスを一次史料から解き明かした実証的な研究書ですが、その第2章に描かれた人事・組織システムは、現代の管理職にとっても驚くほど実践的な示唆に満ちています。何世代にもわたって組織を存続させた江戸商人の人材育成の哲学を、本書を通じて紐解いていきましょう。

三井大坂両替店 銀行業の先駆け、その技術と挑戦 (中公新書)
元禄四年(一六九一)に三井高利が開設した三井大坂両替店。当初の業務は江戸幕府に委託された送金だったが、その役得を活かし民間相手の金貸しとして成長する。本書は、三井の膨大な史料から信用調査の技術と法制度を利用した工夫を読み解く。そこからは三井...

なぜ現代の組織では「人が育ちにくい」のか

昨今の職場では、人材育成にかかるコストと時間を圧縮しようとする圧力が強まっています。即戦力採用、短期目標の達成、早期離職……そういった環境の中で、管理職として部下に向き合う時間はどんどん削られていきます。

その一方で、現場では「誰もノウハウを教えてくれない」「上司との関係が薄い」「組織へのロイヤルティが持てない」という声が絶えません。育てる仕組みがないまま成果だけを求めても、人は育たない。頭ではわかっていても、その仕組みをどう設計すればよいのか、多くの管理職が模索しています。

その問いに対して、300年以上前の江戸商人が一つの完成した答えを持っていました。それが三井大坂両替店の人事システムです。短期の成果より、長期の関係に賭ける――この覚悟を組織の設計原理に据えたとき、何が起きるのかを本書は教えてくれます。

10歳から住み込み――超長期的キャリア設計の真意

三井大坂両替店では、末端で働く奉公人を10歳という若年期から住み込みで採用していました。食事も寝る場所も、生活のすべてが店の中にありました。そのまま長年にわたる研鑽を積み、勤続30年という歳月を経てようやく、店外に自分の自宅を持つことが許される――本書はそのような超長期的なキャリアパスが組織の基盤として構築されていたことを明らかにしています。

現代の感覚からすれば、随分と気の長い話に聞こえるかもしれません。30年間、組織のなかで働き続けてようやく独立の第一歩を踏み出せる。しかしこの設計には、極めて合理的な意図が込められています。

三井大坂両替店の主力業務である信用調査は、数値化できない人間観察の技術に依存していました。融資申請者の素行や地域での評判を調べ上げる聴合の技術は、マニュアルに書けるものではなく、経験を重ねる中でしか身につかない暗黙知です。この種の技能を組織の中に蓄積し、次の世代へと確実に引き継いでいくためには、人材を長く組織の内側に置き続ける必要がありました。

技能と忠誠心を同時に育んだ、インセンティブの構造

長期雇用の設計で特に注目すべきは、技能の蓄積と組織への忠誠心が、同じ仕組みの中で同時に育まれるよう設計されていた点です。

奉公人は10代から20代の最も吸収力の高い時期を、三井の仕事の中で過ごします。信用調査の作法、帳簿の付け方、顧客との交渉の勘所――これらを体に染み込ませながら、同時に組織への帰属意識も深めていきます。そして、30年という時間の先に「別家」という報酬が待っています。

この「別家」とは、単に家を与えられるということではなく、三井という組織のなかで独立した主体として認められる、一種の地位の獲得を意味していました。
30年間の蓄積が、組織への献身と引き換えに報われる。
この長期的な約束が、奉公人の日々の仕事への動機づけを支えていたのです。

「裏切れば未来を失う」という構造的な不正防止

人事システムの設計において、もう一つ見逃せない機能があります。それは、不正やモラルハザードを構造的に防ぐ仕組みとしての側面です。

三井大坂両替店の信用調査は、融資申請者に接触する奉公人に大きな裁量を与えていました。調査担当者が申請者と癒着して虚偽の報告を行えば、貸し倒れが起きて組織は損害を被ります。現代の組織でも、現場担当者によるモラルハザードは経営の難題の一つです。

この問題に対して、三井が用意した答えは短期的なボーナスではありませんでした。10年、20年という単位で積み上げてきた信頼と実績、そして30年後に待っている別家という将来の生活保障――これらすべてを一度の不正で失うリスクを、奉公人は常に意識せざるを得なかったのです。

長期的な関係性こそが、最も強力な倫理的抑止力になる。
本書はそのことを、江戸時代のリアルな経営の記録として示しています。

現代の管理職が三井の人事から学べること

現代の企業が短期評価・即戦力志向に傾く中で、三井の人事システムは時代遅れに映るかもしれません。しかし、本質的な問いは今も変わりません。組織の中核を担う技能と信頼を、どうやって次の世代に受け渡すのか――この課題は、江戸時代も現代も同じです。

管理職として部下と向き合うとき、短期の成果だけを追い求める関係では、深い信頼は育まれません。あなたが部下に対してどんな長期的な関わりを持てるか、どんな成長の機会を用意できるか、そして何年後にどんな姿になってほしいかを描けるかどうか――その視点の深さが、部下からの信頼につながっていきます。

三井の奉公人制度が300年以上前に体現していたのは、煎じ詰めれば「人を長い目で見る覚悟」でした。これは人事コンサルタントの教科書には載っていない、実際に企業を何世代にもわたって存続させてきた者だけが知る、経験知の結晶です。

持続可能な組織を作る、時代を超えた経営の原理

本書の著者・萬代悠氏が一次史料から丁寧に掘り起こした三井大坂両替店の人事システムは、現代の人事コンサルタントが提案する数多の理論よりも、ずっと本質的なことを教えてくれます。

それは「何のために組織があるのか」という問いへの答えです。目先の利益の最大化のためではなく、何世代にもわたって共同体を持続させるために――そういう長期的な視野から組織を設計すると、自然と人を大切にし、育て、長く組織にとどめる仕組みが生まれます。

人を育てることは、組織を育てること。
この当たり前の真実を、三井大坂両替店は300年以上前に実践していました。部下との関係に悩み、組織のあり方を模索するすべての管理職にとって、本書は得難い思考の材料を提供してくれるはずです。ぜひ手に取ってみてください。

三井大坂両替店 銀行業の先駆け、その技術と挑戦 (中公新書)
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