部下に注意したいのに、どう伝えればいいかわからない。会議で発言しても、相手の顔色が気になって本音を引っ込めてしまう。そんな経験を繰り返すうち、「自分はもしかして、感情をうまく扱えていないのではないか」と感じることはありませんか。管理職になってから、怒りも喜びも表に出しにくくなった、という方は少なくありません。むしろ「感情を出さないのがプロ」と信じて、自分の気持ちを押し込めてきた方もいるのではないでしょうか。
プレゼンで言葉に詰まるとき、声が震えることを恐れるとき、あなたの体は何かを伝えようとしています。その「何か」を無視し続けることが、実は発言の説得力を奪い、相手との距離を広げているとしたら、どう感じますか。感情を封じることが、コミュニケーションの障壁になっているかもしれないのです。
家に帰れば妻との会話がかみ合わず、子どもとどう接すればいいかもわからない。仕事の疲れで笑顔がつくれない日が続いている。そんなとき、感情を「切り捨てるべきもの」と思い込んできた習慣そのものが、家庭の距離感を生んでいる可能性があります。今回ご紹介するジェシー・ゴールドの『医療者たちの燃え尽き症候群』は、感情の抑圧がいかに人の内側を蝕むかを、医療現場の最前線から鮮やかに描き出した一冊です。
「感情を出さない人」が評価される文化の危うさ
医療の世界には、こんな不文律があります。「医療に泣く場所はない(There’s no crying in medicine)」。患者の命を預かる現場で感情的になることは、プロとして失格だという考え方です。
この言葉は医療現場だけの話でしょうか。「会議で感情的になるな」「弱みを見せるな」「上司が動揺するとチームが不安定になる」……ビジネスの世界でも似たような空気は当たり前に漂っています。感情を抑えることが、有能さの証明だとでも言うように。
ゴールドは本書の中で、この「感情の体系的な抑圧」が医療者をいかに破壊してきたかを精神科医の目線から告発しています。そしてその告発は、医療現場だけではなく、感情を切り捨てることで自分を保ってきたすべての働く人間に、静かな問いを突きつけます。
何十年も涙を流せなかった医師のケース
本書に登場する印象的な人物のひとりが、キャリアの中盤に差し掛かったベテランの救急医師です。何十年もの間、一度も泣いたことがない、と彼女は語ります。
次々と運び込まれる重症患者に対応するために、彼女は意図的に感情のスイッチを切り続けてきました。それは最初、一種の「適応」でした。感情を遮断することで、目の前の処置に集中できる。それは確かに機能していたのです。
しかしゴールドがカウンセリングを通じて明らかにしていくのは、感情の遮断が「悲しみ」だけを切り取るのではないという事実です。悲しみとともに、喜び、共感、つながりへの感覚まで、すべてが失われていた。彼女は感情という器そのものを手放してしまっていたのです。
感情を切り捨てた先にあるのは、強さではなく空洞です。
「プロとして強くあれ」という呪縛の正体
なぜ人は感情を押し殺そうとするのでしょうか。その背景には、「感情を見せることは弱さだ」という根強い信念があります。
ゴールドは本書で、この信念が精神疾患の受診を妨げる最大の障壁になっていると指摘しています。「助けを求めること=弱い人間」という誤った方程式が、限界を超えた医療者たちを追い詰めてきた。
これは管理職にとっても他人事ではありません。「部下に弱みを見せてはいけない」「上司が不安定な姿を見せたら、チームが崩れる」。そう信じて感情を封じ込めてきた結果、部下からは「何を考えているかわからない人」と思われ、距離が縮まらない、という状況は珍しくありません。
脆弱さを隠すことが、信頼されない上司をつくっているのかもしれません。
感情の抑圧がコミュニケーションを壊すしくみ
人が感情を表に出さなくなると、何が起きるでしょうか。
まず、相手に「この人は自分のことを理解してくれていない」と感じさせます。感情が伝わらない言葉は、情報としては届いても、相手の心を動かしません。部下に「よくやった」と言っても、あなたの顔に何の表情もなければ、その言葉は空洞です。
次に、自分自身も他者の感情を受け取れなくなります。感情の回路を閉じた人間は、発信だけでなく受信も鈍くなります。部下が「しんどそうにしている」サインを見落とし、妻が伝えようとしているメッセージを聞き損ね、気づいたときには関係が壊れている、ということが起きる。
ゴールドが本書で示すのは、このサイクルの恐ろしさです。感情を抑圧するほど、コミュニケーションは形骸化し、人間関係は希薄になっていく。それは医療者に限らず、感情を「切る」習慣を身につけたすべての人に起こりうる現象です。
「感情を取り戻す」ことが、関係を変える第一歩
では、どうすればいいのでしょうか。ゴールドのカウンセリングの中で、ベテランER医師が長年固く閉ざしてきた感情の扉を、わずかに開くプロセスが描かれています。
それは劇的な瞬間ではありませんでした。涙が一滴こぼれた、とかそういうことではなく、抑圧されてきた記憶に言葉を与えること。「あのとき、本当は怖かった」「あのとき、本当は悲しかった」と、自分に認めること。それだけで、何かが少し動き始める。
管理職としての現場でも、同じことが言えます。部下の前で「正直、自分もこの案件は難しいと思っている」と一言添えるだけで、場の空気が変わることがあります。完璧な上司を演じるより、人間として感情を持っていることを示す方が、信頼をつくる近道になるのです。
感情は排除すべきノイズではなく、人をつなぐ言語だ
本書がもっとも強く伝えているメッセージは、感情は排除すべき「ノイズ」ではないということです。感情こそが、人と人をつなぐ言語であり、相手に「この人はわかってくれている」と感じさせる唯一の手段です。
ゴールドは自身も精神科医として燃え尽きを経験し、セラピーを受けることで自分の感情と向き合いなおした経緯を本書に記しています。他者をケアするために、まず自分自身をケアしなければならない。その命題は、医療者だけでなく、部下を率い、家族を支えようとするすべての管理職にとっても本質的な問いかけです。
感情を押し殺すことで何かを守ろうとしてきたあなたへ。その習慣が、守ろうとしていたものを少しずつ遠ざけていたとしたら、今日から何かを変えるきっかけにこの一冊はなるはずです。

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