「右派」と「左派」、保守とリベラル――長年にわたって私たちはこの二項対立で社会を理解してきました。しかし今、職場でも家庭でも、その軸では説明できない奇妙な対立と共鳴が生まれていることに気づいていませんか。健康意識の高いマネジャーが陰謀論の動画をシェアしていた。自由を重んじると言っていた部下が、権威主義的な言説を支持していた。「この人がなぜ?」という戸惑いは、もはや個人の問題ではありません。
ナオミ・クライン著『ドッペルゲンガー』は、現代政治の最も不気味な変化として「ダイアゴナリズム」――対角線政治という概念を提示しています。従来の左右の対立軸が崩壊し、まったく異なる思想的背景を持つ人々が、ある種の感情を媒介として「対角線上で野合」していく現象です。これは遠い国の政治の話ではありません。職場の人間関係、チームの分断、家庭での価値観のすれ違いにも、同じ力学が静かに流れ込んでいます。
本書のポイントである「対角線政治という新たな分断」を読み解くことで、組織の中で起きる説明しがたい亀裂の正体が、少しずつ見えてくるはずです。40代の管理職として部下と向き合うとき、その手がかりは必ずあなたの日常の中にあります。
右派でも左派でもない「斜め上」の結びつき
クラインが本書で描く現象は、一見すると信じ難いものです。オーガニック食品を愛し、ヨガや瞑想を日課とするウェルネス志向の人々が、白人至上主義者や極右勢力と強固な共闘関係を結んでいく。このニューエイジ層をクラインは「ファーアウト」、極右勢力を「ファーライト」と呼び、両者が対角線上で出会う現象を「ダイアゴナリスト」と名づけています。
この結びつきを可能にしたのは、政治的なイデオロギーの共有ではありません。身体への不信感、国家やビッグテックへの反発、そして「真実は隠されている」という強烈な感覚です。何を食べ、何を身体に入れるかへの執着が、ワクチンへの不信感と結びつき、そこからディープステートへの陰謀論へと滑り込んでいく。
思想が人をつなぐのではなく、感情が人をつなぐ。
クラインのこの観察は、職場のチームを見渡すときにも鋭く機能します。同じ価値観を持つからチームがまとまるのではなく、同じ不安や怒りを共有するとき、人々は思わぬ形で結束するのです。
「戦略的乱交」という言葉が示す政治の変容
本書でクラインが解析するスティーブ・バノンという人物は、この対角線政治を戦略的に設計した仕掛け人として描かれます。バノンは自身の手法を「戦略的乱交」と表現しています。イデオロギー的な純粋性を捨て、本来は相容れないはずの多様な不満層に次々とアプローチし、巨大な政治連合を作り上げていく手法です。
バノンの戦略で特筆すべきは、左派が本来取り上げてきたはずの課題――巨大企業の専横、格差の拡大、政治への不信――を積極的に取り込んでいる点です。正当な問いを掲げながら、その答えを歪んだ方向へと誘導する。旗印は借りるが、中身はすり替える。この手法は、現代のポピュリズムの核心的な技術です。
管理職の視点から見れば、この構造は他人事ではありません。チームのモチベーションが下がっているとき、部下の不満を拾い上げる人間が必ずしも建設的な方向へ導くとは限りません。正当な不満が、間違った出口へ向かうとき、それを可能にする「設計者」の存在を見落とさないことが重要です。
なぜ「共通の敵」が対角線を一本にするのか
対角線政治が成立する理由のひとつに、クラインは「共通の敵の設定」を挙げています。政府、製薬会社、ビッグテック、メインストリームメディア――これらへの反発は、思想的背景がまったく異なる人々の間でも共有しやすい感情です。
人間は、共通の敵を持つとき、驚くほど強く結びつきます。職場でも同じことが起きます。特定の上司や方針への反発が共通項となり、もともと仲の良くなかった部下同士が急に結束する。あるいは、ある部門への不満が組織横断的な不信感へと発展する。これは「仲が良いから」ではなく「共通の不満があるから」生まれる結束です。
共通の敵は、思想の違いを一時的に消す。
この力学を理解することは、チームのマネジメントにおいて重要な視点を与えてくれます。表面的な連帯の背後に何があるのか。それは建設的な共通目標から来ているのか、それとも共通の不満から来ているのか。そこを見極める力が、管理職としての判断力を支えます。
「純粋さへの執着」が生む排除の連鎖
クラインが対角線政治の媒介として注目するもうひとつの要素が、身体的な純粋性への執着です。何を食べるか、何を身体に入れるか、何が汚染されていて何が清潔か――この感覚は、外部からの侵入や汚染に対する強烈な防衛反応と結びついています。
「純粋さへの執着」は、本来は個人の健康管理として始まります。しかし、それが社会的な文脈に結びつくとき、「純粋でないもの」への排除の論理を生み出しやすくなります。グループの純粋性を守るために、異質な要素を排除する力学が生まれる。これは職場の文化にも静かに忍び込みます。
チームの結束が高まるにつれて、新しい視点や異論を持ち込む人間が「空気を読めない存在」として弾かれていく。多様性を声高に掲げながら、実質的には均質性を強化するグループ力学。クラインが描くウェルネス層と極右の野合は、この純粋性への執着が外部化したときに何が起きるかの、極端な事例として読むことができます。
職場の「対角線」に気づくための問いかけ
本書の知見を職場に持ち込むとするならば、こんな問いが有効でしょう。チームの中で、もともとは接点がないはずの人々が急速に結びついているとき、その接着剤は何か。共通の目標なのか、共通の不満なのか、あるいは共通の「敵」なのか。
クラインが描く対角線政治は、政治的な現象である以前に、人間が不安や怒りを処理するときの基本的なパターンです。正当な感情が、なぜ建設的な出口ではなく破壊的な出口へと向かうのか。その分岐点はどこにあるのか。
チームの結束の質を問う習慣を持つ。
これが、本書から管理職が引き出せる最も実践的な問いかけです。連帯は強いほど良いとは限りません。何が人をつなげているのかを理解することが、組織を健全に保つための第一歩となります。
「説明できない分断」を前にしたとき
家族との会話がかみ合わない、部下の考えが理解できない、同世代の友人が突然違う世界に行ってしまったように感じる――こうした「説明できない断絶」の体験は、現代人の多くが抱えているものです。
クラインの対角線政治という概念は、その断絶に少し別の光を当てます。「あの人が変わってしまった」ではなく、「あの人が持っていた正当な不安が、ある設計された経路を通って別の場所へ向かっていった」という見方です。変質ではなく、経路の問題として捉え直す視点です。
これは責任を免除するものではありません。しかし、断絶した相手を「理解不能な存在」として切り捨てるのではなく、「なぜその経路を選んだのか」を問い続ける姿勢を可能にします。管理職として、家庭の一員として、その姿勢はコミュニケーションの入口を開き続ける力になるはずです。

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