「新しいツールを導入すれば、チームの生産性が上がるはずだ」「他の部署でやっているあの手法を、うちにも取り入れたい」。
こんな発想が頭をよぎったことは、ありませんか? IT業界にいれば特に、新技術や新サービスの情報が次から次へと押し寄せてきます。「最新のものを取り入れなければ遅れる」という焦りを、管理職になってからはなおさら強く感じている方も多いでしょう。
ところが、酒井光雄氏の『価格の決定権を持つ経営』を読み進めると、その焦りこそが落とし穴だと気づかされます。本書が提示する「新商品よりも既存商品を磨け」という視点は、経営の話にとどまらず、チームマネジメントやキャリア形成にも深く刺さる考え方です。手元にある「原石」を磨くことが、最も確実な成長への近道だと、本書は静かに、しかし力強く語りかけてきます。
「新しいもの」に飛びついてしまう、その心理
売上が落ちたとき、チームの成果が伸び悩んだとき、人は反射的に「何か新しいことをしなければ」と考えます。これは経営者だけでなく、管理職の立場にある人にも共通する心理です。
「今のやり方では限界だ」「新しい手法を導入すれば変わるはずだ」という発想は、一見すると積極的で前向きに映ります。ところが実際には、この思考パターンが「今すでに持っているもの」の価値を見えなくさせてしまうのです。
酒井氏が本書で指摘しているのは、まさにこの点です。多くの企業が成長の停滞を感じたとき、新商品開発や異業種参入に飛びつきます。しかし、ゼロから市場を切り開く新事業には、多大な費用と高い失敗リスクがつきまといます。投資に対してリターンが出るまでに時間もかかります。一方で、すでに一定の顧客基盤や生産ノウハウ、市場での認知を持っている既存商品は、少しの工夫で劇的に収益性を高められる「宝の山」になり得ると、本書は断言しているのです。
既存のものには、すでに「信用」が宿っている
なぜ既存資源を磨くことがそれほど有効なのか。その答えは「信用」という言葉に凝縮されます。
新しいサービスや商品は、市場での実績がゼロからのスタートです。どれほど良いものを作っても、顧客に「信用」してもらうまでには時間も費用もかかります。ところが既存の商品やサービスには、すでにそれを使い続けている顧客がいます。評価や口コミが積み重なっています。改善の余地がどこにあるかも、使用データから見えてきます。
新規開発のコストは既存改善の何倍にもなることが多いにもかかわらず、多くの企業がそこに向かってしまう。本書はその逆説を、具体的な事業戦略の観点から鋭く解き明かしています。
これはIT部門の管理職にとっても、そのまま当てはまります。新しい開発手法やツールを導入する前に、今のチームがすでに持っているスキルや経験が、本当に活かしきれているかを問い直すことが先決なのではないでしょうか。
「原石の研磨」とは、何をすることか
本書では、既存商品を磨くことを「原石の研磨」という表現で呼んでいます。では具体的に、何をどう磨けばいいのでしょうか。
酒井氏が挙げる方法は、大きく四つに整理できます。一つ目は「ターゲットの再定義」です。今まで想定していた顧客層を見直し、別の層に向けて提供することで、まったく異なる価値が生まれる場合があります。二つ目は「見せ方の工夫」です。内容は変えなくても、伝え方や見た目を整えるだけで、受け取られ方が大きく変わります。三つ目は「周辺サービスの付加」です。本体の商品はそのままに、サポートや保証、使い方のガイドを充実させることで、顧客が感じる価値が高まります。四つ目は「パッケージの変更」で、提供の形を変えることで、同じ中身でもまったく異なる市場に届けられるようになります。
ITの現場に置き換えると、たとえば社内向けに運用してきたシステムを、外部顧客向けにもサービスとして提供できるよう整備し直すことがこれに当たります。あるいは、チームが長年積み上げてきたノウハウを、研修プログラムや手順書として体系化し、他部署や取引先に展開することも「原石の研磨」の一形態といえます。
部下の「既存の強み」を磨く視点
本書の考え方は、人材育成の場面でも大きなヒントを与えてくれます。
管理職として部下のマネジメントに悩むとき、「あのスキルが足りない」「もっとこういう動き方ができれば」と、ないものに目が向きがちではないでしょうか。ところが酒井氏の視点に立てば、まず問うべきは「この人がすでに持っている強みを、私はどれだけ引き出せているか」という問いになります。
部下一人ひとりには、これまでの経験の中で培われた得意な領域や、独自の視点があります。それを上司がきちんと認識し、適切な場所で発揮できる環境を整えることが、チームの生産性を上げる最短ルートです。新しい研修を受けさせることよりも先に、今の仕事の中で強みを活かせているかを確認する。この順番を守るだけで、チームの雰囲気は変わってきます。
今いるメンバーの可能性を磨くことが、チームの底力を上げる。本書のメッセージは、そのままマネジメントの原則として機能するのです。
「足元の宝」に気づかずに失敗したこと
正直に振り返ると、かつて私自身も「新しいもの」への過信で失敗した経験があります。
あるプロジェクトで、チームの生産性が伸び悩んでいた時期、すぐに新しいタスク管理ツールを導入しようとしました。調査に時間をかけ、比較検討を重ね、導入にこぎつけたものの、チームの反応は芳しくありませんでした。操作を覚える手間が増えただけで、根本的な問題は何も解決しなかったのです。
あとから冷静に分析してみると、本当の問題は「ツールの機能が足りない」ことではなく、「タスクの優先順位がチーム内で共有されていない」という、コミュニケーションの問題でした。既存のツールをそのまま使いながら、運用ルールを一つ追加するだけで済む話だったのです。
手元の道具を磨かずに、新しい道具を買いに行く。この失敗の構造は、まさに本書が警告していることと重なります。
自分のキャリアも「原石の研磨」で考える
本書の視点は、個人のキャリア設計にも応用できます。
40代の管理職ともなれば、これまで積み上げてきた経験やスキルは相当な厚みを持っているはずです。ところが、将来への不安を感じたとき、「今から新しい資格を取らなければ」「全く別の分野を学ばなければ」という方向に思考が向きがちです。もちろん新しい学びは大切ですが、その前に「自分がすでに持っているものを、どう活かし直せるか」という視点が抜け落ちてはいないでしょうか。
10年以上のIT経験は、業界の外から見れば希少な専門性です。チームをまとめてきたマネジメントの経験は、業種を問わず通用する財産です。それらを「当たり前のもの」として過小評価せず、意識的に磨き直すことが、最も現実的なキャリアの強化策になります。
酒井氏が企業に向けて言う「既存商品を磨け」は、個人に置き換えれば「自分の経験を磨け」という言葉になります。宝は、遠くにあるのではなく、足元にこそあるのかもしれません。
磨くべきものを見極める目を養う
もちろん、すべての既存リソースが磨けば光るわけではありません。すでに市場から求められなくなったものを無理に続けても、消耗するだけです。本書が伝えているのは「変化を拒め」ということではなく、「まず手元にあるものの可能性を見極めてから判断せよ」ということです。
磨く価値があるかどうかを判断するためには、顧客の目線に立ち返ることが必要です。自分たちが提供しているものに、顧客はどんな価値を見出しているのか。そのうちまだ十分に活かされていない部分はどこか。この問いを丁寧に掘り下げることが、「磨くべき原石」を見つける作業です。
酒井氏の本書は、この問いを立てるための思考の軸を与えてくれます。432ページという圧倒的な情報量の中に、「価値づくり」の具体的な方法論が体系化されており、読み進めるほどに自社やチームの「まだ光っていない強み」が見えてくる感覚を覚えるはずです。
新しいものを追いかける前に、まず手元の宝を磨く。そのシンプルな原則を実践に移すための、強力な道案内となる一冊です。

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