「このプロジェクト、もう3ヶ月も承認待ちなんです」
そんな言葉を、あなたも職場で耳にしたことがないでしょうか。あるいは自分自身が、その「承認待ち」の当事者になっていることも。
新しい施策を動かそうとするたびに、稟議書の書式確認、リスク評価シートの記入、関係部署への事前根回し、会議での審議……。気づけば、「何かを決めること」よりも「決めるための手続き」に、はるかに多くのエネルギーが注がれている。そして、そのプロセスを全部クリアした頃には、市場のタイミングはとっくに過ぎていた――。
IT業界の管理職であれば、こうした経験は決して珍しくないはずです。
実は、この「組織の手続き地獄」と同じ構造が、いまアメリカ社会の大きな問題として改めて注目されています。ニューヨーク・タイムズのオピニオンコラムニスト、エズラ・クラインとジャーナリストのデレク・トンプソンが書いた共著『アバンダンス――「豊かな時代」を呼びさませ』は、まさにこの「プロセス至上主義」の病理を真正面から解剖した一冊です。
著者はこう断言します。「問題は、資金やアイデアがないことではない。政府が結果よりも、プロセスを重んじすぎていることだ」と。この言葉は、国家の話であると同時に、現代のあらゆる組織に刺さる指摘でもあります。
「決める力」を失った社会のリアル
本書が描く現代アメリカの病理は、一言で言えば「手続きが目的化した社会」です。
何かを実行しようとすると、まず環境への影響を評価する書類を作る。次に、関係するあらゆる利害関係者に通知する。異議申し立ての期間を設け、公聴会を開く。各ステップで訴訟リスクが発生し、弁護士費用が積み上がる。そして最終的に、計画が実行に移されるまでに何年もかかる――。
著者らはこれを「プロセス至上主義」と呼び、その代償をデータで示しています。
アメリカの高速鉄道の建設コストは1キロメートルあたり6億ドル以上。ドイツは4億ドル未満、日本では3億ドル未満です。技術力の差ではありません。環境影響評価のやり直し、住民訴訟、細分化された自治体の拒否権――これらの「手続きコスト」が積み重なった結果です。
カリフォルニアの高速鉄道プロジェクトに至っては、何十年にもわたる環境影響評価のやり直しと、NIMBY(自分の裏庭には建てるな)グループからの絶え間ない訴訟により、数百億ドルを費やしながらも、ほとんどレールが敷かれないという事態に陥っています。
お金も技術も時間も使った。しかし、ものが作れなかった。これがプロセス至上主義の帰結です。
手続きは、誰を守っているのか
ここで著者らが掘り下げる問いが、本書の最も鋭い洞察の一つです。
「すべての利害関係者の合意を義務付けるルールは、誰の利益になっているのか」――。
本来、こうした手続きは弱者の権利を守るために設計されました。環境破壊から地域を守る。マイノリティのコミュニティを開発業者から保護する。それ自体は正しい目的です。
しかし著者らは、現実の機能として、これらの手続きがしばしば「すでに恵まれた人々」を守るツールに転化していると指摘します。
住宅建設に反対する住民団体を例にとってみましょう。複雑な許認可プロセスと訴訟を武器に、新しい集合住宅の建設を阻止できるのは、弁護士を雇う余裕のある既存の住宅所有者たちです。その結果として、住宅の供給が絞られ、価格が高騰する。恩恵を受けるのは、すでに家を持つ人々の資産価値上昇であり、割を食うのは、これから家を探す若い世代や低所得層です。
プロセスが増えるほど、それを使いこなせる人が有利になる。手続きの公平さが、実は不公平を温存する装置になっていく――。これが本書の最も痛烈な逆説です。
この逆説は、企業組織の中にも静かに存在しています。承認フローが複雑なほど、社内政治に長けた人間や、既存の権限を持つ部署が有利になります。新しいアイデアを持つ人間が、手続きの壁に阻まれて疲弊し、やがて提案することをやめる。そういうことが、どの組織でも起きています。
「合意形成」という名の拒否権
本書が指摘する、もう一つの重要なポイントがあります。
「全員の合意を求めるルール」は、事実上、誰にでも「拒否権」を与えることになる――という点です。
現代の民主主義社会では、大きなプロジェクトを動かすためには、あらゆる関係者の同意を得ることが求められます。それは確かに民主的です。しかし著者らは、この仕組みが「変化を起こしたい人」より「変化を止めたい人」に、圧倒的に有利な構造を生み出していると論じます。
変化を止めるためには、反対意見を一つ通すだけで足ります。変化を起こすためには、すべての反対を乗り越えなければならない。この非対称性が、社会の「デフォルト状態」を現状維持に固定させていくのです。
著者らはこれを「レッドテープ」という言葉で表現します。レッドテープとは、公文書を束ねるために使われた赤いリボンに由来する言葉で、転じて「官僚的な煩雑な手続き」を指します。このレッドテープが積み重なった社会では、何かを変えようとするエネルギーのほとんどが、変えること自体ではなく、変えるための許可を得ることに費やされてしまいます。
著者らが訴えるのは、レッドテープを断ち切ることです。それは単なるスローガンではなく、社会が行動する能力を取り戻すための本質的な命題です。
「正しいプロセス」と「早すぎる結果」の間で
ここで公平のために言っておくと、著者らはプロセスそのものを否定しているわけではありません。
環境への配慮、住民の意見反映、弱者の保護――こうした価値は本物であり、それを担保するプロセスには意義があります。問題は、「プロセスの存在意義」と「プロセスの現実的な機能」の間に、いつの間にか大きなズレが生じてしまっていることです。
本書には、こんな問いが投げかけられます。「良い目的のための手続きが、良い結果を妨げているとき、私たちはどちらを選ぶべきなのか」と。
これは単純な問いではありません。プロセスを簡略化すれば、どこかで誰かの権利が守られなくなるリスクがある。しかし、プロセスを守り続ければ、社会は必要なものを作れなくなっていく。著者らはこのトレードオフを直視することから逃げず、「だからこそ、結果を出せる政府が必要だ」という立場を明確にしています。
日本に目を向けると、この問いは決して他人事ではありません。デジタル化推進の話が出るたびに、セキュリティ審査、法的整合性の確認、関係省庁との調整で数年が過ぎていく。脱炭素のロードマップが議論されながら、再生可能エネルギーの接続審査に何年もかかる。手続きの壁は、日本においても同様に高くそびえています。
組織に「承認疲れ」が蔓延するとき
本書の問題意識を、自分の職場に置き換えて考えてみましょう。
あなたのチームで、こんなことは起きていないでしょうか。新しいツールの導入提案を出したが、情報セキュリティ審査、コンプライアンス確認、予算承認、役員稟議と、4つの関門をくぐるうちに半年が経過した。その間に、当初の問題はすでに別の方法で解決されていた――。
こうした「承認疲れ」が蔓延した組織では、やがて現場から提案が出てこなくなります。優秀な人間ほど、プロセスの壁の高さを知っているため、最初から提案をあきらめるのです。
著者らが警告するのは、まさにこの状態です。手続きは一度作られると、それを守ることが組織の慣習となり、手続きを変えること自体が次の手続きを必要とする――。こうして「変えにくさ」は複利で増していきます。
管理職として意識すべきは、自分のチームにどれだけの手続きコストが積み上がっているか、です。実務時間と調整時間の比率は、健全なバランスを保っているでしょうか。メンバーが実際の仕事をするために費やす時間と、報告・承認・調整のために費やす時間を、一度棚卸ししてみることをお勧めします。
「結果を出す組織」に変わるために
では、プロセス至上主義から抜け出すためには、何が必要なのでしょうか。本書の議論から、組織に応用できるヒントを引き出してみます。
著者らが強調するのは、「結果に対して責任を持つ人間が、プロセスを設計する権限を持つべきだ」という原則です。手続きを設計する側と、その手続きによって行動が縛られる側が分離しているとき、手続きは際限なく増殖します。なぜなら、手続きを設計した人間は、その手続きが機能しなくても直接的な痛みを感じないからです。
具体的に言えば、会議の参加者や承認ルートを決める際、「この手続きを通らなければ、最終的にどんな問題が起きるか」を起点に設計する習慣を持つことです。問題が起きたことがない手続きは、多くの場合、削除しても支障がありません。
もう一つ本書が示すのは、「小さく始めて実績を作る」戦略です。カリフォルニアの高速鉄道のように、最初から巨大なプロジェクトを動かそうとすると、それだけ多くの拒否権が発動されます。一方、小さな実験を積み重ねて成功事例を作り、「できる」という信頼を蓄積することで、次第に大きな変化への障壁を下げることができます。
チームの中で変化を起こしたいなら、承認を求める前に、まず実績を作ることです。小さくても動いた事例が一つあれば、それが次の提案の通りやすさを変えます。
「動ける組織」の条件とは
本書が最終的に訴えるのは、社会が「結果を出す能力」を取り戻すことです。
手続きの正しさより、問題が解決されたかどうか。プロセスが守られたかより、必要なものが作られたかどうか。著者らはこの問いを、住宅・エネルギー・インフラという具体的なテーマで徹底的に掘り下げていきます。
「問題は資金やアイデアがないことではない」という著者の言葉は、組織論としても深く響きます。多くの場合、組織が動けない理由は、お金がないことでも、アイデアがないことでもありません。「動くための手続きが複雑すぎること」と、「動かないことのコストが見えにくいこと」の組み合わせです。
プロセスを守ることに慣れた組織は、プロセスが「手段」ではなく「目的」になった瞬間を見逃します。そのとき組織は、外から見れば十分な資源を持ちながら、実際には何も生み出せない状態に陥ります。
本書は、その「見えない停滞」に気づくための、鋭い問いかけを次々と投げかけてきます。現代の組織で働くすべての人に、ぜひ手に取ってほしい一冊です。きっとあなたの職場の「なぜ決まらないのか」という問いへの、新しいレンズを与えてくれるはずです。

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