失われたものを抱きしめることで、人は初めて生きられる―阿部暁子『カフネ』に学ぶ癒やしの本質

あなたは、何かを失ったときに、それをどう受け止めていますか。喪失感に飲み込まれそうになりながら、それでもなお、誰かを救いたいと願ってしまうことはありませんか。阿部暁子の小説『カフネ』は、心温まる癒やしの物語として多くの読者に支持されていますが、その穏やかな表面の下には、もっと深く、もっと切実な問いが隠されています。それは、誰かを救いたいという願いは、本当に利他的なものなのか、それとも自分自身を救うための必死の試みなのかという、居心地の悪い問いかけです。

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癒やしの物語が持つ二つの顔

多くの書評やレビューでは、『カフネ』は食事を通じて傷ついた心が癒やされる、美しいシスターフッドの物語として紹介されています。実際、物語の中心にある薫子とせつなの関係は、血の繋がらない二人の女性が共有された喪失感を乗り越えて絆を築いていく過程として描かれています。しかし、本作の真の魅力は、そうした定型的な癒やしの物語を、内側から批評的に解体している点にあります。

物語の主人公である野宮薫子は、不妊治療の末の流産、離婚、そして最愛の弟の死という三重の喪失を経験し、生きる気力を失っています。そんな彼女の前に現れたのが、弟の元恋人である小野寺せつなでした。せつなは家事代行サービス会社「カフネ」で働き、疲弊した家庭に温かい食事を提供することで人々を支えています。薫子は次第にせつなに惹かれ、彼女を救いたいという強い願いを抱くようになります。

しかし、薫子の願いの根底にあるのは、純粋な利他主義ではありません。それは、母親になれなかったという満たされない母性の渇望が、庇護すべき対象として見出したせつなへと注がれているのです。薫子がネグレクト状態の子供を目の当たりにして「私だったらこうはさせないのに」と憤る場面は、彼女の行動原理を象徴しています。

救済という名のエゴが暴かれる瞬間

物語の終盤、薫子はせつなに対して常軌を逸した提案をします。この提案は、ある書評家によって「突拍子もない、せつなもドン引きの決断」であり、「傲慢さの塊」と評されています。しかし同時に、それは薫子自身を癒やす唯一の道でもあったのです。彼女の救済は、誰かに救われることによってではなく、他者を「救済」するという支配的な行為を通じて達成されるのです。

この場面は、本作が単なる癒やしの物語ではなく、愛と狂気の境界線を描いた心理劇であることを明確に示しています。薫子がせつなの背中を撫でながら、まだ見ぬ我が子に語りかけるかのように呟くシーンは、彼女の心の中で行われている心理的な置き換えを露わにします。せつなは、薫子にとって、失われた子供の代替物として機能しているのです。

ケアと支配の危うい境界線

本作が提起する最も重要な問いは、「ケアは、いつコントロールへと変質するのか」というものです。多くの読者は、薫子とせつなの関係を心温まる疑似家族の物語として読むでしょう。しかし、より深く読み解けば、その関係性が必ずしも対等で健全なものではなく、一方がもう一方を精神的に支配しようとする歪んだ共依存関係へと変質しうる危険性を孕んでいることがわかります。

物語は、血の繋がらない女性たちが寄り添うシスターフッドという心地よい枠組みを提示しつつ、その内実を内側から巧みに破壊しているのです。薫子の行動は、純粋な愛情と執着という二つの要素が複雑に絡み合ったものであり、読者はその曖昧さの中で、自分自身の「救済」への願いを問い直すことになります。

食事という非言語コミュニケーション

本作において、食事は単なる生命維持の手段ではなく、感情の機微を伝え、関係性を構築するための最も重要なメタファーとして機能します。薫子とせつなの間にあった当初の緊張関係が氷解する最初のきっかけも、食事でした。心身ともに衰弱しきって倒れた薫子に対し、せつなは多くを語らず、ただ優しく温かい手料理を差し出します。

せつなの料理は、単に技術的に優れているだけではありません。彼女は依頼者が置かれた状況や精神状態を深く洞察し、その心に寄り添う最適な一皿を提供する、共感性の高い料理人です。例えば、青森の郷土料理「卵味噌」は、単なる食事ではなく、食べる者の郷愁や心の安らぎを呼び覚ます装置として描かれます。

物語が進むと、今度は薫子がせつなを介抱する場面が訪れます。せつなが好きなものが、ごちそうではなく、ありふれた「おにぎり」と「プリン」であることを思い出した薫子は、彼女のためにそれを用意します。これは、ケアの方向が一方通行から双方向へと転換したことを示す重要な瞬間です。

壊れたケーキがパフェに生まれ変わる時

本作の中で最も象徴的なエピソードが、薫子の誕生日の場面です。薫子が落としてぐちゃぐちゃにしてしまったケーキを、せつなは美しいパフェへと生まれ変わらせます。この場面は、壊れてしまったものでも、見方を変え、手を加えることで完璧なものになり得るという、再生と救済の強力なメタファーとなっています。

パフェという言葉は、フランス語の「parfait」、つまり「完璧な」を意味します。せつなが作り出したパフェは、単なる料理ではなく、薫子の壊れた人生そのものが、まだ完璧なものに変わりうるという希望の象徴なのです。ここには、失敗や喪失を受け入れ、そこから新しい価値を創造するという、本作全体のテーマが凝縮されています。

読者自身を映し出す鏡としての物語

興味深いことに、『カフネ』は読者の個人的な経験によって、その意味が大きく変わる作品です。多くの読者は、喪失からの再生と人との繋がりの温かさを読み取るでしょう。しかし、薫子と同様の喪失感や渇望を経験した読者は、物語の背後に潜む「狂気」や「執着」の気配を敏感に察知します。

実際、不妊治療を経験したという書評家は、本作を「愛と狂気の物語」として捉え、薫子の行動を「傲慢さの塊」であると同時に「このうえなく妥当」で「納得できる」ものとして評価しています。つまり、本作は読者の経験を映し出す鏡のように機能し、物語の最終的なテーマが「癒やし」なのか「執着」なのかは、読者自身の人生経験との共同作業によって創造されるのです。

見つけられた家族の危うさ

現代の文学や映画では、血の繋がらない人々が築く「見つけられた家族」が美しく描かれることが多くあります。しかし、『カフネ』は、そうした理想的な関係性の裏側に潜む危険性を暴き出します。薫子とせつなの関係は、表面的には互いを支え合う理想的なものに見えますが、その実態は複雑です。

薫子にとって、せつなは自分の満たされない母性を注ぐ対象であり、自分の人生の意味を再構築するための手段でもあります。一方、せつなは薫子の支援を受け入れつつも、その重さに押しつぶされそうになります。この緊張関係こそが、本作の核心であり、読者に深い問いを投げかける部分なのです。

今こそ読むべき理由

現代社会では、セルフケアや自己管理といった言葉が氾濫し、「自分を大切にするために、これくらいのことはすべきだ」という規範的なメッセージが溢れています。しかし、『カフネ』は、そうした「簡単な」行為すら実行できないほど疲弊している人々の存在を肯定し、教え諭すのではなく、ただ静かに寄り添う姿勢を示しています。

本作は、頑張りたくても頑張れない人たちに寄り添ってくれる小説です。派手な演出もなく、劇的な解決策も提示しませんが、失ったことをバネに強くなれるかという問いかけを、静かに、でも確かな強さで描いています。自分を見直し、そこから再び大事なものを見つけ、つながっていけるかという再生のプロセスが、丁寧に綴られているのです。

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NR書評猫783 阿部暁子 カフネ

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