「自分には何が足りないのだろう」。そう自問するとき、あなたはどんな答えを思い浮かべますか。話す力、決断力、専門知識の深さ、カリスマ性……。
中間管理職として昇進したばかりの頃、自分の欠けている部分ばかりが目に入りがちです。部下を前にすると声が小さくなる。会議では言いたいことの半分しか言えない。技術的な自信はあっても、人を率いる自信がどこかぐらつく。そういった劣等感は、多くのマネージャーが抱えています。
しかし、高任和夫氏の『仕事の流儀 28人の達人たちに訊く』は、その劣等感にまったく別の意味を与えてくれます。達人たちが口を揃えて語るのは、コンプレックスを消すことではなく、コンプレックスを「引き出し」として持ち続けることの大切さです。弱さは克服すべきものではなく、活かすべき資源なのかもしれない。本書を読み解きながら、その意味を考えていきましょう。
成功者はコンプレックスがないのではなく、使い方を知っている
世間では、成功した人間とは最初から能力が高く、自信に満ちたエリートだと思われがちです。しかし本書に登場する28人の達人たちのほぼ全員に、強烈な挫折や劣等感の歴史があります。
漫画家の水木しげるは、太平洋戦争の激戦地で左腕を失い、戦後は極貧の生活を送りました。俳優の小沢昭一は、社会の主流から外れたところに身を置き続け、大衆文化の辺境で自分の表現を探し続けました。科学者や教育者たちもまた、時代の荒波に翻弄され、傷を負いながら歩んできた人々です。
彼らが他の人間と違ったのは、そのコンプレックスを隠したり、消したりしようとしなかった点です。むしろ、それを「引き出し」として内側に持ち続け、いざというときに開けられるようにしておいた。本書はそのプロセスを、さまざまな角度から照らし出しています。
水木しげるが証明した「負の体験の昇華」
本書で最も印象深いエピソードの一つが、水木しげるの生き方です。
戦争で片腕を失う。これは通常、その人の人生を根底から奪う体験です。あるいは傷を隠し、見せないようにしながら生きることを選ぶかもしれない。しかし水木は違いました。
その喪失感、恐怖、戦場での死と隣り合わせの記憶を、彼はそのまま創作の核心に据えました。鬼太郎やねずみ男が纏う「死の匂い」と「現世への執着」は、水木自身が全身で経験した生と死の境界線から生まれています。あの独特の世界観は、コンプレックスを消したら決して生まれなかったものです。
心理学では、自己の劣等感や痛みを建設的な活動に向ける働きを「昇華」と呼びます。水木の創作はまさにその極致でした。傷を負ったから見える景色がある。底を見たから描ける人間の本質がある。そのことを、彼の作品全体が証明しています。
弱さを見せることが、他者の深い部分に届く。
これは漫画の話だけではありません。
「引き出し」が多い上司だけが、部下の本音を引き出せる
IT企業のマネージャーとして、部下のマネジメントに悩んでいる方に聞いてほしい話があります。
なぜ部下は本音を言わないのか。なぜ会議では表面的な発言しか出てこないのか。その理由の一つは、上司が完璧に見えているからかもしれません。
失敗経験を見せない上司、弱さを語らない上司、いつも正解を持っているように振る舞う上司。そういう人の前では、部下は「余計なことを言ってはいけない」と感じます。自分の迷いや失敗を打ち明けることが、弱さの露呈に思えてしまうからです。
一方、自分自身のコンプレックスや失敗談を「引き出し」として持ち、適切な場面で開けられる上司はどうでしょう。「自分も昔、提案を5回連続で却下されたことがある」「部下との関係に悩んで眠れない夜が続いた」。そういう言葉が出てきたとき、部下は初めて本音を話せる空気を感じます。
本書の達人たちが、その言葉に圧倒的な説得力を持つのは、コンプレックスという「引き出し」の厚みがあるからです。完璧な履歴書を持つ人間の言葉より、どん底を知っている人間の言葉の方が、人の心に届くのです。
昇進直後の「自信のなさ」をどう扱うか
最近昇進したばかりで、部下から信頼を得られていないと感じているあなたへ。
その自信のなさ、実はとても大切な「引き出し」になります。
マネージャーになりたてのとき、誰でも自信がない。どう動けばいいかわからない。部下に何を話しかければいいかわからない。その感覚を、早く消し去ろうとしていませんか。「上司らしく」振る舞うことで、その迷いを隠そうとしていませんか。
しかし本書の達人たちの言葉を借りれば、その迷いこそを「引き出し」にしてください。今あなたが感じている「わからない」という感覚は、数年後に部下が同じ壁にぶつかったとき、最も力のある言葉を届けるための蓄えになります。
「自分もそこで迷った」と言える上司と、迷ったことすら覚えていない上司。どちらが部下の心に寄り添えるか、言うまでもないでしょう。
プレゼンが通らない理由は「弱さを見せていない」から
会議での発言が思ったように伝わらない。プレゼンテーションをしても、なんとなく相手の心に届いていない気がする。そういう悩みを持つ方に、本書のポイント3は一つの手がかりを与えてくれます。
人が動くのは、完璧な論理ではなく、話し手の「本音」に触れたときです。そしてその本音が見えるのは、話し手が自分の弱さや失敗を隠さず語るときです。
たとえば提案の冒頭に「このプロジェクト、正直まだ確信が持てていない部分があります。でも、だからこそ皆さんと一緒に考えたい」と言える人と、完璧な資料で押し通そうとする人。どちらが聴衆の心を開くでしょうか。
コンプレックスを「引き出し」にするとは、弱さを戦略的に開示することでもあります。水木しげるが傷を隠さなかったように、あなたも職場の場面場面で、自分の不完全さを武器として使えるはずです。
家庭でも「引き出し」は通じる
この発想は、家庭でも機能します。
子どもとの接し方がわからない。妻との会話がかみ合わない。在宅勤務が増えて家族との時間が増えたのに、むしろ距離を感じる。そういう悩みを抱えているとしたら、家庭でも「引き出しを開ける」ことを試してみてください。
仕事のことで迷っていることを、子どもに話してみる。「お父さんも、うまくいかないことがあるんだ」と伝えるだけで、子どもとの会話の質が変わることがあります。妻に対しても、格好をつけるより、今感じている不安や迷いを正直に話す方が、関係が深まるケースは多い。
本書の達人たちが長い人生の中で培った知恵は、「弱さをさらけ出すことで、人間関係が本質的なところでつながる」ということです。コンプレックスの引き出しは、職場だけでなく家庭でも、確かな橋渡しになります。
「弱さ」を資源にする、達人たちの共通点
本書を通じて見えてくる達人たちの共通点は、こう整理できます。
コンプレックスを消そうとしない。隠そうとしない。むしろそれを丁寧に保存し、引き出しとして使えるようにしておく。そして、その引き出しが多ければ多いほど、他者の痛みや迷いに寄り添える幅が広がる、ということです。
水木しげるが戦争体験を昇華させたように、小沢昭一が社会の周縁からの視点を磨いたように、あなたが今感じている自信のなさや孤独感も、いつかそれが誰かを動かす言葉の源になります。
高任和夫氏の『仕事の流儀 28人の達人たちに訊く』は、自分の不完全さに悩むすべての人に向けて、静かで力強いメッセージを届けてくれます。弱さは克服するものではなく、引き出しに変えるものだ、と。ぜひ一度、手に取ってみてください。

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