「大丈夫」の一言に潜む危機——ジェシー・ゴールド『医療者たちの燃え尽き症候群』が告発するシステムの病理

部下が「大丈夫です」と答えるとき、あなたはその言葉をそのまま受け取っていませんか。最近昇進したばかりで、チームの雰囲気をつかみきれていない。会議では自分の言葉が届いている手応えがなく、部下との距離が縮まらないまま時間だけが過ぎていく。そんな焦りを感じているリーダーほど、「大丈夫です」という返答の裏に何が隠されているかに気づきにくいものです。

プレゼンテーションの場でも、同じことが起きていないでしょうか。チームの課題を整理して上司に報告しても、どこか響いていない。数字や論理は正しいはずなのに、なぜか相手が動いてくれない。それは「伝え方」だけの問題ではなく、「何を伝えるべきか」の選択に根本的な見直しが必要なサインかもしれません。

家庭でも、同じ構造があります。妻との会話がかみ合わない、子どもとの時間に充実感がない。在宅勤務が増えて顔を合わせる機会は増えたのに、むしろ関係性が息苦しく感じられる。個人が「もっとうまくやろう」と努力するだけでは、どこかで限界がきます。問題が「人」ではなく「仕組み」にあるとしたら、どうすればいいのか――精神科医ジェシー・ゴールドの著書『医療者たちの燃え尽き症候群』は、まさにその問いに向き合った一冊です。

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「セルフケアをしなさい」という言葉の残酷さ

燃え尽きた人に「もっと休んでください」と言うことは、骨折した人に「もっと歩いてください」と言うのと同じかもしれません。ゴールドが本書で繰り返し訴えるのは、燃え尽き症候群を「個人の問題」として片付けることの危うさです。

医療の世界では長らく、精神的に追い詰められた医療従事者に対して「ヨガをしなさい」「瞑想を取り入れなさい」「もっとよく眠りなさい」というアドバイスが繰り返されてきました。しかしゴールドはこう問い返します。問題の根が「システムの毒性」にあるとしたら、個人の努力で何が変わるのか、と。

セルフケアの推奨だけでは人を救えない。

この言葉は医療界だけの話ではありません。職場で「もっとコミュニケーションを取ろう」「1on1をしっかりやろう」と個人の努力を求め続けても、そもそもの組織の構造が人を消耗させるように設計されていれば、努力は空回りします。リーダーとして部下の疲弊に気づいたとき、まず問うべきは「この人はセルフケアが足りないのか」ではなく「この職場の何が人を追い詰めているのか」という視点なのです。

妊娠中の看護師が最前線に送り込まれた理由

本書には、読む者の胸を締め付けるエピソードが登場します。妊娠中の腫瘍内科看護師が、自らの専門外である新型コロナウイルスの最前線病棟に「再配置」を命じられる場面です。

未知のウイルスへの感染リスクと、胎児への影響への極度の恐怖。それでも「行かなければ同僚に迷惑がかかる」という罪悪感から、彼女は限界を超えて働き続けます。その後に現れたPTSDは、ゴールドの言葉を借りれば「個人のメンタルの弱さ」ではありません。安全を担保しないまま医療従事者を最前線へ送り出し、使い捨てにするシステム側の欠陥が生み出した傷です。

ITの職場で言い換えれば、適切なサポートも権限も与えないまま新しい役割を押し付けられた部下の話に重なりませんか。「頑張ればできるはず」という期待のもとで消耗していく人は、能力が低いのではなく、仕組みが壊れているサインを体で示しているのです。

「I’m fine」の裏に隠れているもの

部下の言葉をそのまま信じるのは危険です。

ゴールドが本書で指摘する「I’m fine」の問題は、日本のビジネス現場でもそのまま通用します。部下が「問題ありません」と答えるとき、それは本当に問題がないのではなく、「問題があると言える環境ではない」というメッセージである可能性があります。

医療の世界では、弱みを見せることが「プロフェッショナリズムの欠如」と見なされる文化が長く続いてきました。これは日本のビジネスシーンでも無縁ではありません。「しんどい」と言えない雰囲気、「できません」と言えない空気、そうした場の設計こそがシステムの問題です。

部下が本音を言えない職場では、リーダーはいつも「問題なし」という報告だけを受け取ることになります。そして実際に問題が表面化したとき、すでに手遅れになっていることが少なくありません。マネジャーとして本当に必要なのは、「大丈夫」の一言を疑える感度と、本音が言える場をつくる設計力です。

個人を責めるのをやめると、何が見えてくるか

ゴールドの分析で特に印象的なのは、燃え尽きた人たちが「なぜ自分はこんなに弱いのか」と自分を責め続けているという描写です。本当の原因はシステムにあるのに、その毒性に気づかないまま、傷ついた自分を責め続ける。これは医療従事者だけに起きていることではありません。

部下のモチベーションが低下したとき、「本人の意欲の問題だ」と結論づけることは簡単です。しかし一歩立ち止まって「この仕事の設計に問題はないか」「評価の基準は納得できるものか」「無理なリソース配分になっていないか」と問い直すと、見える景色が変わってきます。

人ではなく仕組みを疑う習慣が大切です。

これはプレゼンテーションの場でも同じです。提案が通らないとき「自分の話し方が悪い」と反省する前に、「聴き手が判断するための情報が十分に届いているか」「意思決定のプロセスに構造的な障壁がないか」を確認する視点を持つことで、問題解決の糸口が見つかりやすくなります。

システムを変えるリーダーの役割

本書でゴールドが最終的に訴えるのは、個人のセラピーや自助努力の限界を超えた「社会全体での変革」です。医療システムが抱える構造的欠陥を告発することで、変化のために声を上げることの重要性を示しています。

これをIT企業の中間管理職の立場に置き換えると、どうでしょうか。チームの働き方に無理があると感じたとき、個人に「もっと工夫して」と求めるだけでなく、業務量の配分や意思決定の権限委譲、評価制度の見直しについて上位層に働きかけることもリーダーの仕事です。

システムの問題を個人の問題として処理し続けることは、組織全体の疲弊を招きます。「うちのチームはなぜいつも元気がないのか」という問いの答えが、実は「仕事の設計そのもの」にあることは、珍しくありません。現場に近いマネジャーだからこそ、その問題を言語化して上に届ける役割があります。

家庭という「もう一つのシステム」を見直す

ゴールドの視点は、家庭という場にも応用できます。在宅勤務が増えて家族との接触時間が増えたはずなのに、関係性がうまくいかないとしたら、それは「個人の努力が足りない」からではないかもしれません。

家庭にも、暗黙のルールや役割分担、コミュニケーションの「仕組み」が存在します。妻との会話がかみ合わない背景に、互いの期待値のズレや、話す時間帯・場所・テーマの設計がうまくできていない、という構造的な問題が潜んでいることがあります。

大切なのは、話しやすい場の設計を先に整えることです。

「今日どうだった?」という漠然とした問いより、夕食後に10分だけ今日の出来事を共有する時間を決めておく、あるいは週末の朝に家族の翌週の予定を確認する習慣をつくるなど、小さな仕組みを整えることで、コミュニケーションの質は変わってきます。個人が「うまくやろう」と意識を高めるよりも、仕組みを変える方が継続しやすく、効果も出やすいのです。

精神科医ジェシー・ゴールドが医療の現場から発したメッセージは、組織のリーダーにも、家庭の中の一人としての私たちにも、鋭く届いてきます。「大丈夫」の裏に隠れた声を拾い上げ、個人を責める前にシステムを疑う。そうした視点の転換が、職場でも家庭でも、より良い関係をつくる最初の一歩になるのではないでしょうか。

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