「これが密室か」と唸る快感──M.W. クレイヴン/ボタニストの殺人上/二重の不可能犯罪

会議の資料を前に、ふと手が止まることがあります。「自分の仕事に、これだけ頭を使っているのに、なぜ思うように伝わらないのだろう」と。毎日、情報を処理し、判断を下し、部下に指示を出し続けていると、どこかで「純粋に頭を使う快感」を忘れかけている自分に気づく瞬間があるかもしれません。

そんな感覚を思い出させてくれる一冊があります。M.W. クレイヴン著『ボタニストの殺人 上』です。本書は、「なぜこうなのか」「どうすれば解けるのか」という論理の快楽を、これでもかと詰め込んだ警察ミステリです。管理職として毎日問題解決に向き合っているあなたの思考回路を、まったく別の形で刺激してくれるはずです。

今回は本書の最大の魅力である「二つの不可能犯罪の同時進行」という構成に焦点を当て、その仕掛けと読み応えをご紹介します。

Amazon.co.jp: ボタニストの殺人 上 (ハヤカワ・ミステリ文庫) : M・W・クレイヴン, 東野 さやか: 本
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雪の上の足跡という、古典の王道

物語は、一人の女性が逮捕されるところから始まります。英国国家犯罪対策庁の重大犯罪分析課で働く病理学者、エステル・ドイル。主人公ワシントン・ポーの数少ない友人の一人です。彼女は、実の父親を射殺した容疑をかけられています。

事件現場となったノーサンバーランドの実家は、降り積もったばかりの雪に包まれていました。そして雪の上には、エステルのものだと断定された足跡が一人分しかない。掌には銃器を発射した証拠となる硝煙反応が残っている。警察はこの事件を「言い逃れのできない犯行」として扱いました。

これは、ミステリ好きにはたまらない「雪の密室」という古典の形式です。アガサ・クリスティやジョン・ディクスン・カーが得意とした、物理的に不可能な状況での殺人事件。その王道のギミックを、現代の最先端捜査技術と組み合わせることで、著者は独自の緊張感を生み出しています。

衆人環視という、もう一つの密室

しかし本書の巧みさは、密室が一つではないことにあります。エステルの事件と並行して、英国中を震撼させる連続毒殺事件が進行します。マスコミから「ボタニスト(植物学者)」と呼ばれる暗殺者が、押し花と詩を添えた犯行予告を送りつけ、その通りに次々と著名人を毒殺していくのです。

衝撃的なのは、その舞台です。テレビの生放送中、討論番組の出演者が突如として倒れ、そのまま息を引き取る。スタジオには警備員がいて、カメラが回っていて、何十万人もの視聴者が見守っている。それでもボタニストは、まるで壁をすり抜けるように標的の命を奪っていきます。

こちらは物理的な壁や扉が閉ざされているわけではありません。警察の監視網と、衆人環視という「社会的な密室」の中で犯行が行われる。毒物がいつ、どのようにして体内に取り込まれたのか、まったく掴めないのです。時間と手段の密室とでも言うべき謎です。

「黄金時代ミステリ」と現代捜査の融合

本作が傑出しているのは、クラシックな謎解きの構造と、現代的な捜査手法が鮮やかに共存している点です。エステルの事件では、硝煙反応という現代法医学の証拠が、古典的な密室のトリックをより強固に見せています。単純に「足跡がない」だけでなく、科学的な証拠まで重なることで、状況証拠の壁がいっそう高くなっている。

一方でボタニストの事件には、徹底したリサーチに裏打ちされた毒物の知識と、現代のセキュリティ技術への深い理解が宿っています。英国国家犯罪対策庁という組織の手続きや権限の問題も、リアリティをもって描かれています。

80年以上前の黄金時代から受け継がれた「不可能犯罪」というジャンルを、著者は現代の舞台に移植することに成功しました。読者の多くが「ページをめくる手が止まらない面白さ」と評するのは、この融合が絶妙なバランスを保っているからでしょう。

二つの謎が読者の思考に過負荷をかける

毎日、複数の案件を同時進行で処理しているビジネスパーソンには、特に理解しやすい感覚があると思います。本書の上巻は、まさしく「二つのプロジェクトを同時に抱えながら、どちらも答えが見えない」という状態を、読者に体験させます。

「雪の密室はどうやって作られたのか」「毒物はどのタイミングで投与されたのか」という二本の問いが、絶えず脳内で並走します。一方の謎を考え始めると、もう一方の謎が気になる。両方を考えようとすると、頭が心地よく混乱する。日本の読者からも「頭の中は大混乱だが、それがたまらなく楽しい」という声が多く聞かれます。

管理職として部下の問題と上司からの要求の間で思考をフル回転させている日常と、どこか似た負荷の感覚があります。ただし、仕事の問題と違って、こちらはリラックスして楽しめる。そこが読書の醍醐味でもあります。

不可能を可能にするポーとティリーの頭脳戦

ポーが「黒魔術」と呼んで嫌う物理的法則を無視した謎に、今回は二つ同時に挑むことになります。彼の相棒で天才的な頭脳を持つ民間人分析官ティリー・ブラッドショーとともに、論理の光で「不可能」を解体していく過程が本書の核心です。

友人を救うためにポーが組織の命令を越えて動き、ティリーが膨大なデータと鋭い直感でそれを支える。二人の絶妙な掛け合いは、難解なトリック解明の過程に温かみを与えています。「答えはどこかに必ずある」という信念で動く探偵たちの姿は、困難な問題に直面したときの一つの指針にもなるかもしれません。

上巻はあえて謎を積み上げるだけ積み上げて終わります。「何が何だかわからないが、続きが読みたくてたまらない」という状態こそ、著者が意図した読書体験です。論理の快感を久しぶりに味わいたい方に、強くおすすめします。

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NR書評猫1260 M.W. クレイヴン ボタニストの殺人上

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