「思い込みが会社の利益を削っている」——牧野百恵/ジェンダー格差/実証経済学が暴く無意識の損失

「この仕事はキツいから、男性に向いているよな」「あの人は細かい作業が得意そうだから、こっちに回そう」――会議室の片隅で、あるいは仕事を割り振るほんの一瞬に、そんなつぶやきが頭をよぎったことはないでしょうか。口に出すわけでも、意識するわけでもない。ただ、気づかないうちに人を「型」にはめてしまっている。そしてその「型」が、チームの生産性をじわじわと蝕んでいるとしたら、どうでしょうか。

部下からの信頼がなかなか得られない、プレゼンで思うように伝わらない、家族との会話もどこかかみ合わない……そうした悩みの根っこに、自分でも気づいていない「思い込み」が潜んでいることがあります。牧野百恵著『ジェンダー格差――実証経済学は何を語るか』は、そのことを感情論ではなく、データと経済学の言葉で静かに、しかし鋭く突きつけてくる一冊です。

本書を読み終えたとき、「公平にしなければならない」という義務感からではなく、「思い込みを手放すことは、自分と組織の利益になる」という実感が残ります。今回は本書のエッセンスのひとつ、「無意識の偏見が引き起こす経済的損失」という視点を軸に、管理職として、家庭の担い手として、この一冊が何を語りかけているかをひもといていきます。

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「ジェンダー格差が大きい企業ほど利潤が少ない」という不都合な事実

本書の冒頭を貫くのは、一見シンプルだが、読む者の背筋を伸ばさせる実証データです。著者の牧野百恵氏は、世界各国の企業データを分析したうえで「ジェンダー格差が大きい企業ほど利潤が少ない傾向にある」という事実を提示します。

これは、道徳的な観点で「差別はよくない」と言っているのではありません。ビジネスの合理性の観点から言っているのです。

偏見は損である。

なぜそうなるのか。カラクリはシンプルです。「この仕事には男性が向いている」という根拠のない思い込みが採用や配置の判断を歪めると、本来その職務で力を発揮できるはずだった人材が最初から除外されます。組織としては、使えたはずの才能を使えていない。それがじわじわと、パフォーマンスや利潤の差となって現れる――これが、著者が実証データで示したメカニズムです。

「経営の問題」として語られがちなジェンダー論が、実は部署単位・チーム単位の話として、今日の仕事の進め方に直結しているという事実に、多くの読者が気づかされることになります。

思い込みは「悪意」ではなく「習慣」から生まれる

本書の中で著者が特に力を入れて解説するのが、「アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)」という概念です。これは、意図的な差別とは異なります。

たとえば「体力が必要な現場作業は男性向きだろう」という判断。多くの場合、発言した本人に悪意はありません。長年の経験や、職場の慣習、あるいは社会全体が積み上げてきた「常識」から自然に浮かんでくる判断です。問題は、その判断が一見もっともらしく見えてしまうことにあります。

その直感は、本当に根拠があるのか。

「常識」は問われません。問われないまま積み重なり、気づいたときには「うちのチームに女性がいない職種」「なんとなく男性が多い会議」が出来上がっている。著者はそこに立ち止まり、「その常識は本当に根拠があるか」と問いかけます。

管理職として仕事を割り振るとき、プレゼンで意見の取り上げ方を決めるとき、部下の評価をするとき――こうした日常のどこかで、思い込みが静かに機能しているかもしれません。それを可視化する手がかりを与えてくれるのが、本書のひとつの大きな役割です。

データが覆す「直感」の落とし穴

「でも、うちの職場では実際にそういう傾向があるじゃないか」という反論は、誰もが一度は口にしたくなるものです。本書はそこにも正面から向き合います。

著者は「相関関係」と「因果関係」の違いを丁寧に説明します。ある仕事に男性が多いのは、「男性がその仕事に向いているから」ではなく、「男性が採用されてきた歴史があるから」かもしれない。結果として生まれた現状を見て、「だから男性向きの仕事だ」と結論づけるのは、循環論法でしかない、というわけです。

この視点は、仕事の現場だけでなく、家庭のコミュニケーションにも当てはまります。「妻はこういうことを言いたいのだろう」「子どもにはこう対応すればいい」という直感もまた、過去の経験や思い込みに基づいている可能性があります。データで考える癖が、身近な人間関係にも新たな気づきをもたらすことがあるのです。

「適材適所」は願望ではなく、実践できる技術である

「適材適所で仕事をしたい」という気持ちは、多くの管理職が持っているはずです。ところが、無意識の偏見が邪魔をすると、「自分が適材と思える人」しか候補に入ってこなくなる。これが、本書の実証データが照らし出す現実です。

著者は経済学の言葉でこれを「資源配分の非効率」と呼びます。要するに、使えるはずのカードを最初から捨てている状態です。

この問題を解消するための第一歩は、思い込みを疑う習慣を持つことです。

アサインの理由を一度だけ言語化してみる。

採用でも、仕事のアサインでも、部下へのフィードバックでも、この一手間が、見えていなかった人材の可能性を浮かび上がらせることがあります。

また、家族とのコミュニケーションでも同じことが言えます。「子どもだからわからないだろう」「妻にはこういう伝え方がいい」という思い込みを横において、まず相手の言葉をそのまま受け取ってみる。そこから、これまでとは違う対話が生まれる可能性があるのです。

「経済合理性」という説得の言葉が持つ力

本書が多くのビジネスパーソンに刺さる理由のひとつは、ジェンダー格差の問題を「倫理的にそうすべき」ではなく、「経営的に損である」という言語で語っている点にあります。

職場においても、プレゼンにおいても、「正しいこと」より「得になること」のほうが行動変容につながりやすいのは周知の事実です。本書はその心理をよく理解したうえで、議論を展開します。

実証データを武器にすれば、感情論を超えられる。

たとえば、「女性も活躍できる環境にしよう」という呼びかけではなく、「多様な人材を活かせていない企業は利潤を失っている」というエビデンスとして示す。読む者は、義務感ではなく、納得感からページを進めることになります。

プレゼンや会議での発言でも、同じ構造が使えます。「こうあるべきだ」という主張より、「こうするほうが成果が出る」というデータベースの説得のほうが、相手の心を動かしやすい。本書の読み方そのものが、コミュニケーションの一つのお手本になっているとも言えるでしょう。

思い込みを手放すと、何が変わるのか

本書を読んで変わるのは、大げさに言えば「世界の見え方」です。

「あの部下はこういうタイプだ」「このプロジェクトはこういう人材に向いている」という判断が、どれだけ自分の先入観でフィルタリングされていたかに気づいたとき、少しだけ視野が広がります。そしてその広がりが、思わぬ人材の発見につながったり、意外な部下の成長を引き出すきっかけになったりします。

著者が示した「ジェンダー格差が大きい企業ほど利潤が少ない」という事実は、逆に言えば「思い込みを減らした分だけ、組織のパフォーマンスは上がる可能性がある」ということです。管理職として積み上げてきた経験は、思い込みと表裏一体でもある。本書はその自覚を促し、経験を「知恵」に昇華させる視点を与えてくれます。

家庭においても同じことが言えます。妻の言葉、子どもの行動。「どうせこうだろう」と先回りするのをほんの少し止めたとき、見えていなかった相手の本音が顔を出すかもしれません。

思い込みを手放すのは、甘くなることでも、信念を曲げることでもありません。むしろ、より精度の高い判断ができるようになることです。本書は、そのことを静かに、データをもって、証明しています。

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