「自分はここまで実力でやってきた」――そう感じる瞬間が、管理職になると増えてきます。部下を束ね、成果を出し、昇進を果たした。それは確かにあなた自身の努力の結果です。しかし同時に、あなたの成功の何割かは、あなたが置かれた組織や環境の「構造」に支えられていなかったでしょうか。
実力と構造の区別がつかないまま、自分の強さを過信することには落とし穴があります。部下がなぜついてこないのかを理解できなくなり、プレゼンで独りよがりな主張をしてしまい、家族との対話でも「自分は正しい」という思い込みから抜け出せなくなる。人間関係の行き詰まりの多くは、自分の立っている地盤を正確に見られないところから始まります。
萬代悠著『三井大坂両替店 銀行業の先駆け、その技術と挑戦』が現代の読者に届ける最後の問いかけは、まさにこの点についてです。本書は江戸時代の偉大な商人を称えるだけでなく、その成功が「特権」と「社会構造」の上に成り立っていたという、冷静で誠実な視点を貫いています。
三井大坂両替店が持っていた「特権」という土台
本書を通じて著者が一貫して強調しているのは、三井大坂両替店が完全な自由市場競争の中で他を圧倒した存在ではなかった、という事実です。
三井大坂両替店は、幕府の公金を為替として扱う、つまり幕府の財政に直接関わる役割を担っていました。この立場は、当時の商業社会において圧倒的な信用力の源泉となっていました。幕府のお墨付きを得た両替店として認められることで、三井は他の両替商や金融業者とは根本的に異なる土台の上に立っていたのです。
幕府の信用を背景に持つことの優位性は、現代で言えば規制産業における許認可に近い意味を持っていました。参入障壁が構造的に設けられているフィールドで戦っていた、という事実を抜きにして、三井の成功を語ることはできません。著者がこの点を丁寧に指摘しているのは、本書の誠実さを示す重要な姿勢です。
近代的な司法制度がない社会で、なぜ厳格すぎる審査が必要だったのか
三井大坂両替店が行っていた信用調査は、現代の金融機関と比べても驚くほど厳格なものでした。担保の価値評価にとどまらず、申請者の私生活や地域での評判まで徹底的に調べ上げる。この極端とも言える慎重さは、どこから来ていたのでしょうか。
その背景には、当時の社会における司法制度の未整備がありました。現代であれば、貸し倒れが起きた場合、債権者は裁判所を通じて財産の差し押さえや強制執行を求めることができます。しかし江戸時代には、そのような近代的な法的強制力が十分に機能していませんでした。
つまり、ひとたび融資の相手が返済できなくなれば、貸したお金を回収する手段は極めて限られていたのです。
だからこそ、最初から貸す相手を徹底的に選ぶしかなかった。
あの厳格すぎる審査は、組織を守るための必然的な防衛システムであったと、本書は冷静に位置づけています。
全員が恩恵を受けられたわけではなかった――構造的な不平等
本書のもう一つの重要な指摘は、三井大坂両替店の融資が、すべての人に等しく開かれていたわけではなかったという点です。
厳格な信用調査を突破できたのは、一定の社会的信用と経済的基盤をすでに持っていた者でした。新たに事業を興そうとしていた無名の商人や、地域に根をはっていない者には、その門はほとんど開かれていませんでした。融資へのアクセスという点で、持てる者とそうでない者の間には、埋めがたい構造的な格差が存在していたのです。
さらに、特権を与えられた三井と同じ条件で競争できた業者は、当時ほとんどいませんでした。幕府の公金を扱えるという立場の差は、信用力において他社との間に根本的な非対称性を生み出していました。三井が優れた経営をしていたことは疑いありませんが、競争そのものがフラットな条件で行われていたわけではないのです。
江戸時代を美化しない――著者の冷静な視点が本書の真価
こうした指摘は、本書の著者・萬代悠氏の学術的誠実さを際立たせています。
近年、江戸時代を環境と調和した持続可能な社会として礼賛したり、明治以降の近代化によって打ち壊された失われたユートピアとして描いたりする傾向の書物は少なくありません。しかし本書はその種の歴史的ロマン主義を退け、一次史料に基づいた客観的な視点を最後まで手放しません。
三井大坂両替店の信用調査の精緻さは、確かに驚嘆すべき知恵の結晶です。しかし同時にそれは、近代的な司法制度の欠如という社会的制約への対応策であり、特権という不平等な土台の上に成り立っていた。両面を同時に描くことで初めて、過去の経済活動から本当の意味での学びを引き出せると、著者は静かに示しているのです。
自分の強さの構造を正確に知ることの意味
本書のポイント3が現代の私たちに与える最も深い示唆は、「自分の成功の構造を正確に知ること」の重要性です。
管理職として一定の成果を出してきたあなたには、確かな実力があります。しかしその実力の一部は、組織という構造、役職という権限、そしてこれまでの時代や環境に支えられていなかったでしょうか。この問いを持てるかどうかが、部下との関係、プレゼンの組み立て方、家族との対話の質を、静かに変えていきます。
自分の立っている地盤を正確に見る目を持つこと。
それは謙虚さと呼んでもいいし、現実認識の精度と呼んでもいい。いずれにせよ、それが人との信頼関係を深め、言葉を相手に届けるための最初の一歩になります。三井大坂両替店の歴史を通じてそのことを教えてくれる本書は、ビジネス書の棚には収まりきらない、思考の深みを持った一冊です。ぜひ手に取ってみてください。

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