百年前の彼女たちが、いま働くあなたの鏡になる~嶋津輝『カフェーの帰り道』直木賞作品が教えてくれること

「なんでうまく伝わらないんだろう」。会議のあと、そんなため息をついたことはありませんか。

部下との距離感がつかめない、上司への報告がかみ合わない、家に帰っても妻との会話がどこかちぐはぐ……。毎日をそれなりに真剣に生きているのに、自分が何者で、どこへ向かっているのか、ふと見失ってしまう瞬間がある。そんな感覚を、あなただけが抱えているわけではありません。

2026年1月、第174回直木賞を満場一致で受賞した嶋津輝の『カフェーの帰り道』は、大正から昭和へと移り変わる時代の、上野にある小さなカフェーで働く女給たちの物語です。舞台は百年前。登場するのは女性ばかり。それでもこの本を読んだ人は、みんな口をそろえます。「これは、自分の話だ」と。

選考委員の宮部みゆきさんが「読んでいる人を幸せな気持ちにさせてくれる」と絶賛したこの作品。今回は、その「百年前が現代の鏡になる」という本書の核心に迫ります。

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百年前の話なのに「自分のことだ」と感じる理由

本書の帯には「百年前のわたしたちの物語」というコピーが添えられています。

大正から昭和初期のカフェーで働く女給、と聞くと、遠い昔の異世界の話のように思えるかもしれません。ところが読み始めると、そのような距離感はすぐに消えてしまいます。

登場人物のひとり、セイは小説家を目指して修業中ですが、思うように書けず、強い焦りを感じています。タイ子は竹久夢二風の独特な化粧を貫き、周囲の目を気にしながらも自分らしくあろうとしています。美登里は面倒見がよく皆に慕われているのに、嘘をつく一面がある。

この人たちの悩みは、当時特有の珍しいものではありません。

「うまく自分を表現できない」「仕事と自己実現のはざまで揺れている」「他者との関係でどこまで本音を出せばいいかわからない」――これらはそのまま、令和のオフィスで働く私たちの内側にある言葉です。時代の衣装が違うだけで、人間が抱える根本的な問いは百年で変わっていない。そのことに気づいたとき、本書は一気に「自分ごと」になります。

「うまく言葉にできない」焦り――セイという存在が刺さる理由

本書の中で、多くの読者がとりわけ深く共感するのがセイという女給です。

彼女は小説を書くことを夢見ながら、カフェーで働いてその日の糧を得ています。ところが、思い描いた表現がなかなか言葉にならない。焦れば焦るほど空回りして、また焦る。そういう悪循環の中にいます。

これを読んで「ああ、自分みたいだ」と感じた方は少なくないはずです。

会議で発言しようとしたのに、口から出てきた言葉は自分の考えの半分にも満たなかった。プレゼンで伝えたいことがあるのに、うまく構成できなかった。部下に的確に指示を出したつもりが、伝わっていなかった。「言いたいこと」と「言えたこと」のあいだにある溝。それはセイが百年前に感じた焦りと同じです。

著者の嶋津輝さん自身も、41歳から小説教室に通い始め、長い時間をかけて言葉を磨き続けてきた方です。56歳での直木賞受賞は、その積み重ねの結果です。セイの焦りには、著者自身の経験が色濃く投影されているのでしょう。だからこそ、リアルに胸に迫ってくるものがあります。

職場の人間関係に「完全な誠実さ」は必要か

本書を読んで、もうひとつ考えさせられることがあります。それは「人と人との距離感」についてです。

カフェーの女給・美登里は、嘘つきな一面があります。それでも皆から深く慕われています。そこへ、年上の新入り・園子が現れ、その美登里すら驚かせる「大胆な嘘」をつく。ところが、誰もそれで関係が壊れるわけではありません。

つまり、このカフェーでは「相手のすべてを正確に知ること」が連帯の条件になっていないのです。お互いの過去を根掘り葉掘り詮索せず、嘘のひとつやふたつを穏やかに受け入れながら、それでも同じ時間と空間を共にする。そういう緩やかな繋がり方が描かれています。

これは職場でも家庭でも、考えるヒントになります。部下との信頼関係を築こうとするとき、「完全に腹を割って話さなければならない」と思い込んでいませんか。適度な距離感が、かえって関係を長持ちさせるということを、本書のカフェーは静かに示しています。

すべてをさらけ出すことだけが誠実さではない。相手の「言わないこと」を責めず、そっとそばにいる。そういう関わり方が、職場でも家庭でも、じつは深い信頼につながることがあるのです。

「遅かった」は関係ない――著者の人生が証明すること

本書をより深く楽しむために、著者・嶋津輝さんの経歴を知っておくと、また違った味わいがあります。

嶋津さんはリーマン・ショックを機に41歳で小説教室の門を叩き、2016年に短編でデビュー、そして56歳で直木賞を受賞しました。輝かしい若手の登竜門とも言われる直木賞に、56歳で満場一致受賞というのは、近年まれに見る快挙です。

40代の方にとって、これは心強いメッセージではないでしょうか。「もう遅い」「今さら変われない」――そう思いかけたとき、著者の軌跡は静かに反論してくれます。セイが焦りながらも言葉を探し続けたように、嶋津さんもまた長い時間をかけて言葉を磨き続けた。その先に、ようやく届いた場所があった。

今日の一歩が、10年後の自分をつくる。 本書が語りかけるのはその真実です。すぐに結果を出さなければという焦りを、少し横に置いて、今できることを丁寧にやる。そういう生き方を、百年前の女給たちと56歳の著者が、一緒に見せてくれます。

「幸せな気持ち」をくれる本が、なぜ今必要なのか

宮部みゆきさんは選評でこう語りました。「読んでいる人を幸せな気持ちにさせてくれる、良い作家だなと思いました」。

これは、単純な褒め言葉ではありません。「幸せな気持ちにさせてくれる」文学は、実はとても難しいのです。人間の暗部や社会の悲惨さを描くことも文学の力ですが、それとは別の、読み終えた後に「生きていてよかった」と思わせるような作品を書くには、並外れた人間観察の力と、深い優しさが必要です。

残業続きの日々、部下との難しいやり取り、家に帰っても気が休まらない感覚――そういう蓄積の疲れの中で、ページをめくるごとに肩の力が抜けていく本があったとしたら、それはどれほど価値があるでしょうか。

本書はまさにそういう一冊です。百年前の小さなカフェーで、女給たちが喜んだり、悩んだり、嘘をついたり、焦ったりしながら、やがてそれぞれの道へと歩いていく。その姿を眺めているうちに、読者は自分の日常を少し離れた高いところから見直す時間を得られます。

明日また仕事に向かう力をくれる本、と言えば、わかりやすいかもしれません。東京創元社にとっても初の直木賞受賞作となった本書は、重版が続き、全国の書店で品切れが相次ぐほどの人気です。これほど多くの人が手に取っているのは、それだけの理由があるからです。

百年の時を超えて届く「あなたへのメッセージ」

本書が伝えることを、ひとことで言えば、こうなります。

自分の言葉がうまく出てこなくても、焦らなくていい。人間関係に完璧な誠実さは必要ない。遅れたと思っていても、今から積み重ねれば届く場所がある。そして、誰かと一緒にいる時間そのものに、意味がある。

これらは百年前の女給たちが体で示したことであり、56歳の著者が人生をかけて表現したことであり、あなたが毎日感じている問いに対する、静かで温かい答えでもあります。

「この本を読んで、少し楽になった」「明日の会議に出る気になった」「妻と久しぶりにゆっくり話したくなった」――そういう声が読者から寄せられているのも、うなずけます。

直木賞受賞作というと「読むのが大変そう」と思う方もいるかもしれません。でも本書は、するすると読めます。文章は温かく、登場人物は親しみやすく、ページをめくる手が止まらない。週末の夜、少し早く布団に入ってこの本を開いてみてください。翌朝、きっと何かが変わります。

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NR書評猫1173 嶋津輝 カフェーの帰り道

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