あなたの職場で、こんな風に感じたことはありませんか。上司への不満や部下への苛立ち、会議での意見の衝突。感情的になってうまく伝えられず、後から後悔する。そんなやりとりが日々積み重なっていく。もし、感情さえなければ、もっとスムーズに仕事が進むのに。そんな風に思ったことは一度や二度ではないはずです。
村上春樹の最新長編『街とその不確かな壁』には、まさにそんな「感情のない世界」が描かれています。高い壁に囲まれた街では、人々の感情や情動が「害悪」として排除され、穏やかで争いのない日々が営まれています。一見すると理想的な世界に見えるこの街が、実は私たちに深い問いを投げかけているのです。
高い壁に守られた街の正体
物語の舞台となる「街」は、外界と完全に隔絶された不思議な空間です。高い壁に囲まれたこの街には、独特のルールが存在します。街に入る者は片方の眼を傷つけられ、図書館で古い夢を読まなければならず、他人と深く関わることも、自分の影に触れることも禁じられています。
なぜこのようなルールが必要なのでしょうか。それは、この街が「心のばら撒くウイルス」から人々を守るために設計されているからです。哀しみ、迷い、嫉妬、恐れ、自己憐憫、そして夢や愛。これらの感情はすべて「いわば疫病のたね」のようなものとして扱われ、人々から切り離されます。
切り離された感情は「影」として壁の外に廃棄されます。街の住人たちは自分の影を持たず、感情を持たず、ただ静かに日々を過ごします。争いもなく、苦しみもなく、誰もが穏やかに暮らす世界。それが、高い壁に守られた街の正体なのです。
感情を排除した「完璧なシステム」の落とし穴
現代の組織でも、似たような発想を目にすることがあります。感情的な議論を避け、データと論理だけで意思決定を行う。個人的な好き嫌いを排除し、公平で合理的な評価システムを構築する。確かに、感情に左右されない判断は、一見すると正しく見えます。
しかし、村上春樹が描く「街」のシステムは、そうした完璧さの裏に潜む問題を浮き彫りにします。感情や情動が不要な害悪と見なされる世界では、ユートピア性の欠如も感じられず、むしろ目に見えない絶対権力に支配された社会として機能しています。
何かの牲の上に成り立つ社会構造は、街の「あちら側にだけ特殊なことではない」のです。こちら側の世界にだって厳然と存在しています。評論によれば、今作の「街」は、ユートピア性の欠如も感じられず、むしろ目に見えない絶対権力に支配された社会だけのように存在しているかもしれず、単元的な牲の上、単なる問題点として浮き上がりにくいという指摘があります。
つまり、一元的な存在は問題点として認識されにくく、単純な牲と問題として浮かび上がりにくいのです。感情を排除したシステムは、一見すると完璧に見えますが、その完璧さゆえに、人々は自分たちが何を失っているのかさえ気づけなくなってしまいます。
「影」として切り離された心の行方
街のシステムで最も象徴的なのが「影」の存在です。街の人々から切り離された感情や情動は、影という形で壁の外に追いやられます。影は感情を持ち、記憶を持ち、人間らしさを持っていますが、街の人々にとっては不要なものとして扱われます。
これは、現代社会で私たちが抑圧している感情と重なります。職場で怒りを表に出せず飲み込む。家庭で本音を言えずに我慢する。SNSでは取り繕った自分だけを見せる。そうして切り離された本当の感情は、どこへ行くのでしょうか。
村上春樹は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でも同じテーマを扱いましたが、今作ではさらに踏み込んで、その「切り離された心」が生み出す切実さを描いています。影として存在する自分と、街で生きる自分。どちらが本当の自分なのか。その問いは、読者にも突きつけられます。
カフカの「城」を連想させる不条理な世界
本書を読んで連想されるのは、フランツ・カフカの『城』です。煩雑な手続きに忙殺され、翻弄されるにも関わらず、いつまで経ってもその城門が開かれることはない。本作の街も同様に、明確なルールがあるようでいて、その真の目的や意味は住人にも明かされません。
カフカの作品と同じく、村上春樹の描く街には不条理さが漂います。なぜ眼を傷つけられなければならないのか。なぜ図書館で古い夢を読まなければならないのか。それらのルールには共感できても、心の奥底から納得はできません。
ある評論では、街の様々な暗黙のルールについて「それらもまた何かしらの比喩なのだろう。ある比喩が別の比喩を生み、仮説が別の仮説の根拠となり、それがフランツ・カフカの不条理小説のように息苦しく山積していく」と指摘されています。
この不条理さこそが、現代組織の抱える問題と重なります。誰が決めたのかわからないルール。疑問を持つことすら許されない雰囲気。そして、その中で「それが当たり前」として受け入れてしまう私たち。街の住人たちと、私たちは本当に違うのでしょうか。
1970-80年代の構想が現代に問いかけるもの
興味深いことに、本作の第一部は1970-80年代に構想され、1980年に『文学界』に掲載された中編「街と、その不確かな壁」のリライトです。村上春樹にとって40年越しの宿題が解けたことになります。
1970-80年代とは、生活を繰りなすなかで、ひとりひとりが反乱の季節の厳しい経緯を辿られ、また殴動の整頓に迫られる時代でした。そんな歴史的背景を明確に持つ、村上さんなりの経済作業の産物であり、営為だったのです。
大義を掲げて社会変革を図ろうとする「完全なヴィジョン」の概念の末に、「限定されたヴィジョン」のもと、争いのない静かな生活を単独者として引き受けるスタイルを選んだ人々。いや、そう強いられた人々の物語でもあります。
40年の時を経て、このテーマは色褪せるどころか、むしろ現代においてより切実さを増しています。効率化、合理化、感情の排除。現代社会が求める「完璧なシステム」は、村上春樹が40年前に警鐘を鳴らした「壁に囲まれた街」と、どこか似ていないでしょうか。
失われた「心」を取り戻す勇気
物語の主人公は、すでに中年の「私」に成長しています。彼は「ぼく」はすでに中年の「私」に成長しており、40代で東京の職を辞し、福島の小さな町の図書館長となった男性として描かれています。
中年になった主人公が、かつて喪失した純愛の幻影を追い求める姿は、私たち読者にも問いかけます。失ってしまった何かを取り戻すことはできるのか。感情を抑圧して生きてきた日々に、意味はあったのか。そして、今からでも本当の自分を取り戻すことはできるのか。
評論家の橋爪大三郎氏は、本作を「村上春樹の半生と文学の本質を凝縮した物語」と位置付け、現実の図書館と夢の街を舞台に、誰もが物語世界と行き来して豊かに生きられることを示した点を称賛しています。
つまり、壁に囲まれた街と現実世界を往還することこそが、失われた心を取り戻す道なのかもしれません。感情を完全に排除するのでもなく、感情に完全に支配されるのでもなく、両者のバランスを取りながら生きること。それが本作の示すメッセージではないでしょうか。
「時は痛みを癒すのか」という根源的な問い
物語全体を貫くのは、「時は痛みを癒すのか」という問いです。これはドストエフスキーの『罪と罰』の一節で、ある評論家が最も好きな箇所だと述べています。
主人公の「私」は、10代の頃の純愛の喪失から何十年も経っています。しかし、その痛みは癒えるどころか、中年になってなお彼を苦しめ続けます。街に囲まれた「ぼく」の呼びかけにも共感できても、壁で隔てられる肉心の「私」の新作では切実さを欠いていることは否めないという指摘もあります。
だからこそ、壁に囲まれた「街」にとどまるにしても、出て行くにしても、その選択に重みはあまり感じられないのです。時間による癒やしを拒む愛のかたちが、繰り返し描かれています。
これは、現代を生きる私たちにも当てはまります。過去の失敗、後悔、喪失。それらは時間が経てば自然に癒えるものなのでしょうか。それとも、感情を切り離し、影として廃棄しない限り、永遠に私たちを苦しめ続けるのでしょうか。
壁の内と外、どちらを選ぶのか
『街とその不確かな壁』は、単なるファンタジーではありません。現代社会を生きる私たちへの、深い問いかけです。感情を排除した完璧なシステムと、感情豊かだが苦しみも伴う現実世界。あなたはどちらを選びますか。
職場で感情を押し殺して働き続けることは、壁に囲まれた街で生きることと何が違うのでしょうか。家庭で本音を言えずに我慢し続けることは、自分の影を切り離すことと何が違うのでしょうか。
村上春樹は答えを明示しません。ただ、二つの世界を行き来する主人公の姿を通して、私たちに選択を迫ります。完璧だが心のない世界か、不完全だが心豊かな世界か。その選択は、読み終えた後も、あなたの心に残り続けるでしょう。
本書は6年ぶりの長編小説として、村上文学の真髄を凝縮した作品です。壁、影、図書館、井戸、夢、記憶喪失といった村上的モチーフが勢揃いし、「古い夢が奥まった書庫でひもとかれ、呼び覚まされるように」物語が展開していきます。40代のあなたが、自分の人生を振り返り、これからをどう生きるかを考えるきっかけになる一冊です。

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