「また今日も意味のわからない会議があった」「上層部の思いつきで、先月まで進めていた案件が白紙になった」――そんな理不尽に声も上げられず、ただやり過ごしている自分に気づいたとき、何かが少しずつすり減っていく感覚はありませんか。
指示通りに動き、手順書通りに進め、前例通りに判断する。その繰り返しの中で、いつからか「自分で考える」という感覚が遠のいていた。部下には主体性を求めながら、自分自身はどうかと問われると、言葉に詰まってしまう……。
松永K三蔵の芥川賞受賞作『バリ山行』は、そのすり減った感覚の正体を鋭く照らし出す小説です。道なき道を進む「バリエーションルート登山」という行為を通じて、徹底的に管理された現代社会への身体的な抵抗を描いた本書は、中間管理職として日々を送るあなたに、思いがけない視点を与えてくれるはずです。
すべての道に「正解のルート」が用意されている社会
主人公の波多が勤める建物外装修繕の零細企業は、一見すると効率性とは無縁の現場仕事の世界です。それでも、そこには会議があり、報告書があり、上層部の気まぐれな方針変更があります。
波多の会社の登山部も、最初はそれと同じでした。決められたコースを歩き、整備された山道を進み、展望台でコーヒーを飲んで仲間と語り合う。安全で、快適で、予定通り。それは山という場所でありながら、実際には「社外の会議室」のようなものでした。装備も揃え、地図も確認し、ガイドブック通りに計画を立てる。そこに偶然も、判断も、失敗のリスクも存在しない。
これは登山の話だけではありません。現代の職場も、同じ構造を持っています。マニュアルが用意され、前例が参照され、承認フローが整備される。「正解のルート」から外れないことが評価され、外れたときのリスクは個人が負う。その結果として、何かを自分で判断しようとする感覚が、じわじわと削り取られていきます。
道を外れることで、初めて感覚が目覚める
妻鹿という中堅社員が週末ごとに踏み込む「バリエーションルート」は、その対極にある世界です。地図には記されない道、標識のない斜面、整備されていない崖。自分で判断し、自分の身体で確かめ、一歩一歩の重みを直接感じ取りながら進む。
物語のクライマックスで波多が経験するのは、その世界の苛酷さです。濡れた岩肌に爪を立て、泥の斜面を這い上がり、足を踏み外せば滑落という緊張の中で、日常のあらゆる記号が剥がれ落ちていきます。「部長に何と言われるか」「来月の予算はどうなるか」――そうした思考が消え、ただ「今、ここにある岩をどう越えるか」だけが残る。
その瞬間、波多は自分の感覚が戻ってくるのを感じます。足裏に伝わる地面の感触、腕に走る筋肉の疲労、呼吸の荒さ。これらはすべて、オフィスの椅子に座っていては決して届かない情報です。本書が描くのは、身体が限界まで使われるとき、人間の感覚は蘇るという逆説です。
マニュアル社会が奪うのは、「正解を疑う力」だ
日々の業務で感じる息苦しさの正体は、何でしょうか。本書を読みながら考えると、それは「正解を疑う機会がない」ということかもしれません。
手順通りにやっても成果が出ない。前例通りに進めても、誰も喜ばない。それでも「このやり方でやれ」と言われ続けると、人はやがて「なぜそうするのか」を問うこと自体を諦めます。疑問を持つエネルギーが、先に消耗してしまうからです。
妻鹿がバリ山行に惹かれるのは、そこに「正解がない」からです。どの岩をどう掴むか、どのルートを選ぶか――すべてが自分の判断に委ねられています。失敗すれば身体が痛い。正解すれば生き延びられる。その直接的なフィードバックの中でだけ、人間は本当の意味で考えることができる。本書はそう示唆しています。
「主体性を持て」という言葉が空洞になっていく理由
中間管理職として、部下に「もっと主体的に動いてほしい」と感じることはないでしょうか。しかし同時に、自分自身が上からの方針に従うだけで精一杯になっている現実もある。
この矛盾の根っこには、構造的な問題があります。主体性を発揮する余地が組織の設計から失われているとき、個人の努力でそれを補おうとするのには限界があります。波多が登山部の活動を最初、義務的な「人間関係の延長」と感じていたのも、そこに自分の判断が入り込む余地がなかったからです。
本書が提示する視点は、だからこそ過激です。整備された道を外れることは、快適さを手放すことです。安全なルートを捨て、地図のない場所に踏み込むことは、不安と恐怖を伴います。それでも、その不快さの中にしか「生きている感覚」はない――妻鹿はそれを知っているのです。
日常に戻ったとき、何かが少し変わっている
本書の読後感は、奇妙な静けさを持っています。クライマックスの激しさとは対照的に、物語は派手な解決を提示しません。会社が劇的に好転するわけでも、波多が突然変わるわけでもない。
ただ、あれだけの苦しさと恐怖を経験した後、日常の不条理がいくらか相対化されているように感じられます。意味のわからない会議も、理不尽な上層部の指示も、変わらず存在する。それでも、その重さの受け止め方が少し変わっている。
それは、身体が覚えているからかもしれません。あの岩にしがみついたとき、筋肉はどう動いたか。限界を超えたとき、何が残ったか。その記憶が、日常の苦しさの中で「それでも越えられる」という感覚の根拠になっていくのです。
過剰なマニュアルと会議に囲まれた日々の中で、すり減った感覚を持て余しているならば、本書はひとつの答えを静かに差し出してくれます。道を外れることへの恐怖と、そこに踏み出すことの意味を、ぜひ自分の目で確かめてみてください。

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