学歴が人の価値を決めるのか——姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』が問いかける恐ろしい真実

「うちの子、このまま勉強しなかったらどうなるんだろう」と、ふと不安になることはありませんか。あるいは職場で、「やっぱり一流大学出身者は違うな」と感じた瞬間がある方もいるでしょう。私たちは気づかないうちに、偏差値という物差しで人の価値を測っています。

姫野カオルコの長編小説『彼女は頭が悪いから』は、まさにその「当たり前」を根こそぎひっくり返す一冊です。2016年に実際に起きた東京大学の男子学生による集団強制わいせつ事件に着想を得たこの作品は、第32回柴田錬三郎賞を受賞し、社会に大きな波紋を投げかけました。しかし本書が告発するのは、ある特定の事件ではありません。私たちの社会に深く根を張った「学歴信仰」と「選民思想」そのものです。

本記事では、読めば自分の価値観が揺さぶられるこの作品の核心――「高学歴であることが、なぜ他者への加害の免罪符になってしまうのか」――をひもときながら、書評をお届けします。お子さんの受験を見守る親御さんにも、職場のヒエラルキーに日々向き合うビジネスパーソンにも、きっと深く刺さる内容です。

Amazon.co.jp: 彼女は頭が悪いから (文春文庫) 電子書籍: 姫野 カオルコ: Kindleストア
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「彼女は頭が悪いから」――法廷で実際に語られた言葉

本書のタイトルは、著者の創作ではありません。実際の事件の公判において、加害者側から発せられた言葉をそのまま採用したものです。

この一言を聞いたとき、あなたはどう感じますか。「ひどい」と思うはずです。しかし少し立ち止まって考えてみてください。私たちは日常の中で、似たような論理を使ってはいないでしょうか。「あの人、頭が悪いから説明しても無駄だ」「学歴がないから、しょうがない」……。声に出さないだけで、心のどこかにそんな思いが宿っていることはないでしょうか。

タイトルに込められた問いは鋭利なナイフだ。

著者の姫野カオルコは、この言葉を「偏差値という単一の尺度で人間の尊厳に序列をつける日本社会の病理」の象徴として提示しています。加害者の東大生たちは、自らの行為を重大な犯罪として認識していなかった。彼らの頭の中では、それは対等ではない「下位の人間」への「いたずら行為」に過ぎなかったのです。これは単なる個人の道徳的な問題ではなく、学歴という概念が社会にどれほど深く刻み込まれているかを示しています。

東大生たちはなぜ罪悪感を持てなかったのか

本書が最も鋭く突いているのは、加害者たちの「共感能力の欠如」です。

著者は彼らの心理を「受験技術に特化した心」と表現しています。幼少期から「偏差値が高い=価値がある人間」という評価軸だけで全人格的な承認を受け続けた結果、他者の痛みを想像する力が致命的に育たなかった。これは彼らが生まれつき「悪い人間」だったのではなく、日本の教育システムと競争社会が彼らをそのように形成したという指摘です。

つまり、犯した者を生んだのは社会そのものだ。

物語は事件の描写よりも、加害者・竹内つばさと被害者・神打美咲の幼少期から数年にわたる日常を緻密に積み重ねることに大半の紙幅を割いています。「なぜ事件が起きるまでを、こんなに丁寧に描くのか」と疑問に思うかもしれません。しかしこの長い助走こそが、本書の核心です。つばさが広尾の国家公務員宿舎で育ち、東大に進学し、無自覚に特権意識を内面化していく過程。美咲が自尊心を持てないまま、「東大生というブランド」に盲目的な憧れを抱いていく過程。この二つの軌跡が交差する必然性を、著者は徹底して描ききります。

文芸評論家の斎藤美奈子氏は「ハラスメントの要因が育まれる過程を克明に描いたことで、社会の無理解を深くえぐり出した」と評しています。「一部の異常者が起こした事件」として片付けることで、私たちは自分たちの社会の責任から目を背けてきた。本書はその逃げ道を塞ぐのです。

「いたずら行為」と認識させた社会の仕組み

では、なぜ東大生たちは集団性暴力を「いたずら行為」と矮小化できたのでしょうか。そこには単純な悪意以上のメカニズムがあります。

能力主義が暴走すると人の痛みが見えなくなる。

「自分は優秀だから、そうでない者を意のままに扱っても構わない」という錯覚――これを研究者たちは「認識論的暴力」と呼びます。学歴や社会的地位を手に入れた人間が陥りやすい、この歪んだ特権意識は、何も東大生に限った話ではありません。管理職として部下に接するとき、成績上位校に通う我が子と他の子を比べるとき、私たちの中にも同じ萌芽が潜んでいる可能性があります。

作中で唯一まともな大人として描かれる三浦教授というキャラクターが、加害者の母親に向けて放つ短いコメントに、かすかなカタルシスがあります。しかしそれは本当にわずかなものです。著者は「問題を解決して読者を安心させる」という「小説的な都合の良さ」を意図的に排除しています。すっきりした解決など与えない――それが本書の誠実さです。

子どもの受験を応援する前に、親が考えるべきこと

本書を読んで、私が特に考えさせられたのは「教育とは何か」という問いです。

中学生のお子さんを持つ方であれば、高校受験や将来の大学進学に向けて、勉強の習慣や成績を気にする場面は多いはずです。「少しでも偏差値の高い学校に」という願いは、子どもの幸せを思えばこそです。しかしそのとき、私たちは何を伝えているでしょうか。「成績が良ければ価値がある」というメッセージを、知らず知らずのうちに送っていないでしょうか。

著者は加害者の形成過程において、両親の期待と環境の影響を非常に丁寧に描写しています。エリートコースを歩んできた父親、息子に過剰な期待をかける母親。彼らに悪意はない。ただ「良かれと思って」育てた結果、他者の痛みに想像力を働かせられない人間が生まれていきます。

成績だけで子を褒めると何かが育たなくなる。

もちろん、学力を磨くことは大切です。しかしそれと同時に「自分と違う価値観を持つ他者を尊重すること」「他者の痛みを想像する力」を育てることは、もっと大切かもしれません。この本はそのことを、フィクションという形式を通じて突きつけてきます。

職場のヒエラルキーと学歴信仰――あなたの現場は大丈夫か

IT企業の現場では、学歴よりも実力が重視される文化が育ちつつあります。しかし現実はどうでしょう。採用のときに学歴フィルターを意識したことはないでしょうか。「あの大学出身だから優秀だろう」と期待したり、逆に「大した学歴じゃないから」と無意識に評価を下げたりしたことは、本当に一度もないでしょうか。

本書が描く構造は、必ずしも「東大生 対 女子大生」という特殊なケースではありません。組織の中に存在する学歴・役職・出身などによるヒエラルキーは、しばしば「下位に位置する者に対して何をしても許される」という意識を生み出します。パワーハラスメントの多くが、このメカニズムの上に成立しています。

加害者の東大生たちが「いたずら行為」と認識していたように、職場のハラスメント加害者の多くも「これくらいは普通だ」「あいつのためになる」と本気で思っています。加害の自覚がないことが最大の問題だ。

管理職として部下と接するとき、自分の発言が相手にどう響いているかを想像する習慣を持つこと。それは本書が間接的に教えてくれる、職場でのコミュニケーションのヒントでもあります。

「ミラー小説」が映し出すのは、実は私たち自身の姿

著者の姫野カオルコは、本書を書き上げたあとのインタビューでこう語っています。「この小説を書いている間、ずっと嫌な気持ちでした。自分の中の嫌なものを鏡に映されるような気がした」と。さらに「加害者のいやな部分は、私の中に存在する」と断言しています。

これは「自分は加害者ではない」と思っている読者への、静かで強烈な挑戦状です。

実際の事件を聞いたとき、「東大生なのにもったいない」と思わなかったでしょうか。被害者に対して、「なぜそんな状況についていったのか」と疑問を持たなかったでしょうか。その思考の瞬間に、私たちはすでに「学歴による人間の序列付け」を内面化した社会の論理に乗っているのです。

本書は鏡だ。映るのは社会の姿であり自分の姿だ。

本書を読んで「不快だ」と感じるなら、それは本書が機能しているということです。その不快感から目を逸らさないことが、著者が読者に求める唯一のことかもしれません。2019年の東京大学入学式において、社会学者の上野千鶴子氏が祝辞の中で本作に言及したことは、この小説が単なる文学を超えた社会的意義を持つことを示す象徴的な出来事でした。フィクションが、現実社会の構造的な問題を解体するための言葉として使われたのです。

不快感の先にある、自分自身への問い

本書を閉じたあと、あなたはしばらく気持ちが沈むかもしれません。それでいいのです。すっきりした読後感を提供するのが著者の意図ではないからです。

美咲は事件後も深刻な摂食障害に苦しみ、社会からのバッシングによって傷つき続けます。彼女が「魂の救済」を得て力強く復活するような展開は、本書には用意されていません。著者は現実の不条理を、現実の不条理のままに描くことを選びました。そのことが、かえってこの物語の誠実さを際立たせています。

「学歴という名の選民思想」は、特別な悪人だけが持つものではありません。偏差値競争に子どもを送り出す親として、成果主義の中で部下を評価する管理職として、私たちは知らず知らずのうちにその構造を強化している可能性があります。本書を読むことは、その自覚を持つ第一歩になり得ます。

もし本書を読んで「自分の中に嫌なものがある」と感じたなら、それはとても誠実な感受性です。そこから目を逸らさずに、自分の言動を少しだけ見直してみること――それが、本書が静かに問いかけていることかもしれません。ぜひ手に取って、自分自身という鏡を覗いてみてください。

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NR書評猫1166 姫野カオルコ 彼女は頭が悪いから

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