天才の「発見」だけでは世界は変わらない——エズラ・クライン『アバンダンス』が解き明かすイノベーション実装の3ステップ

「うちの会社にも優秀な人材はいるし、アイデアも出ている。なのに、なぜ新しいことが根付かないのか」

そう感じたことはありませんか?

新しいシステムを導入しようとしたが、現場に定着しなかった。優れた提案が承認されたのに、半年後には形骸化していた。新製品のアイデアは評価されたのに、いつの間にか立ち消えになった。こうした経験は、IT業界の管理職であれば一度ならず味わっているはずです。

実は、この「アイデアは出るが、実装できない」という問題は、いま国家レベルでも深刻な課題として議論されています。ニューヨーク・タイムズのオピニオンコラムニスト、エズラ・クラインとジャーナリストのデレク・トンプソンによる共著『アバンダンス――「豊かな時代」を呼びさませ』は、この問題に対して鮮やかな答えを示します。

著者らが明かすのは、社会を変えるイノベーションは天才の「発見」だけでは完結しない、という事実です。発見の後に続く、ある泥臭いプロセスこそが、変化を本物にする鍵であると本書は主張します。そのプロセスとは何か。この記事で詳しくお伝えします。

Amazon.co.jp: アバンダンス:「豊かな時代」を呼びさませ 電子書籍: エズラ・クライン, デレク・トンプソン, 土方奈美: Kindleストア
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「発明」は、なぜ社会を変えられないのか

まず、著者らが本書で提示する問いから始めましょう。

「なぜ、優れた発明があっても、社会はなかなか変わらないのか」――。

気候変動の解決策として有望な技術は、すでにいくつも存在します。太陽光発電のコストは劇的に下がり、蓄電池の性能も年々向上している。それなのに、なぜエネルギー転換はこれほど遅いのか。画期的な医薬品が研究室で開発されても、なぜ患者に届くまでに10年以上かかることがあるのか。

著者らはこの問いに答えるために、イノベーションが社会に定着するまでの過程を、3つの段階に分けて説明します。この3段階モデルこそが、本書の最も独創的な視点の一つです。

第1段階は、ティンカリング――発見と改良の段階です。科学者や研究者が初期の概念を見つけ出し、実験室の中で粘り強く磨き上げるプロセスです。多くの場合、この段階は地味で時間がかかり、成果が見えにくいため、資金が集まりにくい。

第2段階は、エンボディメント――社会実装の段階です。発見されたアイデアを、実際に機能させるための周辺インフラを構築するプロセスです。ここが、著者らが最も重要視するステップです。

第3段階は、スケーリング――普及と量産化の段階です。構築されたシステムを、社会全体に安く広く行き渡らせるプロセスです。

著者らが強調するのは、多くの人が第1段階の発見だけをイノベーションだと思いがちだという点です。しかし実際には、第2段階の実装こそが社会変革の核心であり、そこで最も多くのエネルギーと投資が必要になります。

エジソンが本当に発明したもの

このモデルを理解するうえで、本書が挙げる最もわかりやすい事例がトーマス・エジソンの話です。

エジソンといえば、白熱電球の発明者として知られています。しかし著者らは、エジソンの真の功績は白熱電球そのものではなかったと指摘します。白熱電球という概念自体は、エジソン以前にも研究者たちが試みていたものでした。

エジソンが本当に発明したのは、電球を灯すための「システム全体」でした。発電機、配電網、ソケット、スイッチ、そして使用した電力量を計測して課金するメーター――これらを設計し、構築し、一つの機能するインフラとして組み上げた。それがエジソンの真のイノベーションでした。

言い換えれば、エジソンが世界を変えたのは、第1段階の発見者としてではなく、第2段階の実装者としてです。電球というアイデアを、誰もが日常的に使えるインフラに「埋め込む」作業を担ったから、電力の時代が到来したのです。

第2段階なくして、第1段階の発見は宝の持ち腐れになる。著者らはこの原則を、現代のあらゆるイノベーションに当てはめます。

mRNAワクチンが教えてくれること

本書が3段階モデルの現代版として詳しく取り上げるのが、新型コロナウイルスに対するmRNAワクチンの開発です。

この話は、多くの人が知っているようで、実は知らない部分があります。

ノーベル賞を受賞したカタリン・カリコ博士のmRNA研究は、1980年代から続けられていました。しかし数十年にわたって、アメリカの学術界では正当に評価されず、資金も得られず、研究は細々と続くだけでした。優れた発見が、第1段階で長い間止まり続けていたのです。

状況が変わったのは、パンデミックという未曾有の危機に直面したときでした。アメリカ政府はオペレーション・ワープ・スピードと呼ばれる計画のもと、巨額の資金を投じ、平時であれば何年もかかる臨床試験や承認のプロセスを大胆に短縮しました。さらに、製造施設の整備や原材料の確保、配送体制の構築まで、政府が直接関与して支援しました。

その結果、わずか1年足らずで画期的なワクチンが世界中に届けられました。

著者らはここに注目します。カリコ博士の研究が優れていたことは間違いない。しかし、それだけでは世界は救われなかった。政府が第2段階と第3段階を担うことで、初めて発見が現実の力となったのです。

このとき政府がしたことは、単に資金を出すことではありませんでした。手続きの壁を取り除き、製造インフラを整備し、リスクを引き受けた。まさに「建設する政府」として機能したのです。

「監視役」から「建設者」へ

本書が提唱する最も大胆な主張の一つが、政府の役割の再定義です。

現代社会における政府の役割は、主に「市場の監視」として理解されてきました。企業が不正をしないようにルールを作り、違反があれば罰する。環境を守り、競争を促進する。つまり政府は、民間が動くための「審判」であるという考え方です。

しかし著者らは、この役割だけでは不十分だと言います。気候変動対策、住宅供給、次世代インフラの整備――これらの課題は、民間の力だけでは解決できない。なぜなら、リスクが大きすぎて民間単独では踏み込めない領域があるからです。

著者らの言葉を借りれば、政府は「民間だけでは不可能なことを実行する」主体として復活しなければならない。単に審判として試合を管理するのではなく、フィールドを整備し、選手が動けるインフラを建設するプレーヤーとして機能する必要がある、というわけです。

これは「大きな政府」への回帰ではありません。むしろ、政府が何に力を注ぐべきかの優先順位を変えることです。ルールの数を増やすことに注力するのではなく、社会が必要とするものを実際に作り上げる能力を磨く――そこに本書は焦点を当てます。

組織で「実装する力」を育てる

ここで、この3段階モデルを自分たちの職場に置き換えてみましょう。

あなたのチームでも、同じ構図は確かに存在します。新しいアイデアを思いつく人と、そのアイデアを動く仕組みに落とし込む人と、それを組織全体に広げる人は、それぞれ異なるスキルを必要とします。多くの組織では、第1段階の人材をイノベーターとして高く評価します。しかし著者らの視点に立てば、真の価値を生むのは第2段階を担える人材です。

エジソンが電球の「概念」を発見した人ではなく、それを機能するシステムに組み込んだ人として歴史に名を残したように、組織においても「実装する力」を持つ人が、最も大きな変化をもたらします。

具体的にどういうことか。たとえば、新しい開発手法の導入を提案した社員がいたとします。提案が採用された後、その手法を実際に機能させるために必要なのは何でしょうか。チームのスキルアップ、既存プロセスとの接続点の設計、うまくいかなかったときの修正ループの仕組み――つまり、アイデアを「埋め込む」ためのインフラ整備です。この第2段階を誰かがしっかり担わなければ、どんな優れた提案も形骸化します。

管理職の役割は、まさにここにあると言えるかもしれません。アイデアを出すことも大切ですが、それを動く仕組みに変換し、組織全体に定着させる――そのプロセスを設計し、支援することが、管理職としての最も重要な貢献の一つです。

「次の変化」を起こすために

本書が最終的に訴えるのは、社会が「作る力」を取り戻すことです。

著者らが描くアバンダンスの未来とは、物が溢れる消費社会のことではありません。社会が本当に必要としているものを、実際に作り上げる能力を持った社会のことです。住宅、エネルギー、インフラ、医療技術――これらを「あれば良いね」という夢のレベルにとどめず、実際に社会に実装し、普及させるための具体的なプロセスを持てる社会を、著者らは目指しています。

そのための鍵は、第1段階の「発見」を讃えるだけでなく、第2段階の「実装」と第3段階の「普及」に、社会がきちんと投資することです。発見を担う研究者や起業家だけでなく、それを社会に埋め込む仕組みを作る人々の価値を、正当に評価することです。

この視点は、国家政策の話であると同時に、組織やチームの運営にも深く通じます。アイデアを生む文化と、アイデアを実装する文化は、どちらも欠かせない。そしてもしどちらかが弱いとすれば、多くの組織では実装する力の方が手薄になりがちです。

本書を読み終えたとき、「自分のチームの第2段階を担えているのは誰か」という問いが、頭に浮かんでくるかもしれません。それ自体が、この本があなたにもたらす大きな価値の一つです。

優れた発見も、実装なくして世界を変えることはできない――。その当たり前で、しかし忘れられがちな真実を、改めて胸に刻ませてくれる一冊です。

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NR書評猫1154 エズラ・クライン アバンダンス 「豊かな時代」を呼びさませ

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