善意のルールが、なぜ社会を貧しくするのか——エズラ・クライン『アバンダンス』が暴く「人為的な希少性」の罠

会議で何度も決裁を求めたのに、最終的に「検討します」で終わった……。あなたにも、そんな経験はありませんか?

新しいシステムを導入しようとすると、審査フローが複雑で半年かかる。コスト削減の提案を出したら、「前例がない」と却下される。こうした「組織の壁」に阻まれた経験は、IT業界で働く方なら一度や二度では済まないはずです。

実は、この「組織の壁」と同じ構造が、いま世界規模で起きている問題の本質だと指摘した一冊の本が、アメリカで大きな議論を呼んでいます。ニューヨーク・タイムズのオピニオンコラムニスト、エズラ・クラインとジャーナリストのデレク・トンプソンによる共著『アバンダンス――「豊かな時代」を呼びさませ』です。

本書が明かすのは、現代社会が直面している住宅難やインフラの老朽化という問題が、お金や技術の不足から来ているのではなく、過去の善意が生んだルールの積み重ねによって人為的に作り出されたものだ、という衝撃的な事実です。この記事では、本書の核心にあるメッセージである「意図せざる希少性の罠」と「豊かさのアジェンダ」を中心にお伝えします。

Amazon.co.jp: アバンダンス:「豊かな時代」を呼びさませ 電子書籍: エズラ・クライン, デレク・トンプソン, 土方奈美: Kindleストア
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善意のルールが、半世紀後に「罠」になる

まず、本書の出発点となる洞察から話を始めましょう。

著者らが最初に問いかけるのは、「なぜアメリカ社会はかくも多くのものを作れなくなったのか」という問いです。住宅は足りない、インフラは古い、クリーンエネルギーへの移行は遅い……。しかし、資金はある。技術もある。アイデアも豊富にある。それなのに、なぜ「物ができない」のか。

その答えとして著者らが示すのが、「世代間の問題の推移」という概念です。

1970年代のアメリカでは、急速な工業化が引き起こした深刻な環境汚染や、マイノリティの居住区を分断する形での無軌道な高速道路建設が大きな社会問題となっていました。これに対処するため、進歩的な人々は厳格な環境影響評価制度や、地域住民の意向を反映させるための複雑な手続きを整備しました。当時の状況を考えれば、これは明らかに正しい判断でした。

しかし、そこから半世紀が経過した現在、社会が直面している最大の課題は気候変動と住宅不足です。

皮肉なことに、環境を守るために作られたはずの法律が、いまでは太陽光発電所や風力発電施設の建設を何年にもわたって遅延させる武器として機能しています。コミュニティを守るために整備されたゾーニング法は、既存の住宅所有者が高密度の集合住宅の建設を阻止するための道具として悪用されています。

つまり、かつての「解決策」が、今日の「問題」に変わってしまったのです。これが本書のいう「意図せざる希少性の罠」の本質です。

「人為的な貧しさ」とは何か

著者らは、現代の社会問題の多くを「選ばれた希少性」と呼びます。

物が足りないのは、物理的な限界があるからではない。私たちが自ら選択したルールや手続きの結果として、意図的に物が少ない状態が作り出されているのだ、というわけです。

カリフォルニア州の住宅危機は、その最もわかりやすい例です。サンフランシスコやロサンゼルスといった都市では、環境保護や景観維持を目的とした厳格なゾーニング法や環境品質法が、新規の住宅建設を極端に制限しています。その結果として何が起きているか。深刻なホームレス問題と、驚くほどの生活費の高騰です。

2022年時点のデータを見ると、サンフランシスコやロサンゼルスといったリベラルな都市で許可された住宅は人口1,000人あたりわずか2.5戸。一方、規制の少ないテキサス州オースティンでは18戸と、約7倍もの差があります。

環境を守ろうとした法律が、皮肉にも都市を高コストで住みにくい場所へと変えてしまった――。

これは単なる政策の失敗ではなく、「善意で作られたシステムが時代に合わなくなった」という、私たちが日常業務の中でも頻繁に経験する構造的なパターンです。かつて機能していたプロセスが、環境の変化によって障害物に変わる。それでも「前のやり方」を守り続けてしまう。こうした現象は、組織の中でも同じように繰り返されています。

「プロセスを重んじすぎる」病

著者らはさらに踏み込んで、現代のアメリカ行政が「結果」よりも「プロセス」を異常なまでに優先する硬直した官僚主義に陥っていると指摘します。

あらゆる事態を想定し、すべての利害関係者との合意形成を義務付けることが、タイムリーな行動を事実上不可能にしてしまった――。

この「プロセス至上主義」の代価は、公共インフラの建設コストと工期の異常な膨張という形で明確に現れています。アメリカの高速鉄道の建設コストは1キロメートルあたり6億ドル以上。対してドイツは4億ドル未満、日本は3億ドル未満です。同じ鉄道を作るのに、アメリカでは2倍以上のコストがかかる計算になります。

なぜここまで差が開くのか。理由は技術力ではありません。重層的な環境影響評価、頻発する住民訴訟、細分化された自治体の拒否権――つまり「手続き」のコストが積み重なるからです。

決めることよりも、決めるための手続きに膨大なエネルギーが費やされる――。この逆転した優先順位こそが、現代社会の停滞の根源だと著者らは言います。この構図は、意思決定に時間がかかる大企業の会議体と、驚くほど似ていないでしょうか。

本書は、「プロセスを守ること」と「結果を出すこと」の間に生まれた深刻な乖離を、私たちに突きつけます。

「豊かさのアジェンダ」という転換点

では、著者らはどんな解決策を提案しているのでしょうか。

本書の核心にあるのが、「アバンダンス・アジェンダ」と呼ばれる考え方です。現状のシステムを守り続けることに固執するのではなく、社会が本当に必要としているものを積極的に作り出し、供給能力を劇的に拡大させる――そのためのパラダイムシフトを求める提言です。

著者らが特に重視するのは、「発明」を社会に実装する力です。彼らはイノベーションの過程を3つの段階で説明しています。まず「発見と改良」、次に「社会実装・システム化」、そして「量産化・普及」。この3つすべてがそろって初めて、社会は変わることができます。

その最良の成功例として挙げられるのが、新型コロナウイルスのmRNAワクチン開発です。ノーベル賞受賞者のカタリン・カリコ博士の研究は、1980年代から長らく正当に評価されず、資金難に苦しんでいました。しかしパンデミックという危機に際し、政府が巨額の資金を投じ、通常であれば何年もかかる承認プロセスの壁を取り除き、製造インフラの構築を全面的に支援した。その結果、わずか1年足らずで世界中にワクチンが届けられました。

政府が障壁を取り除き、リスクを引き受けることで、社会は一気に前進できる。著者らはこの成功体験を、気候変動対策や住宅供給にも広げるべきだと主張します。

「昨日の正解」を手放す勇気

本書を読んで、私が最も強く感じたのは、「昨日の正解を手放す難しさ」についての問いかけです。

環境を守るために作られたルールが、今日では環境問題の解決を妨げている。コミュニティを守るために整備された法律が、コミュニティを壊すほど高い生活費を生み出している。この逆説を、著者らは「良かれと思って作ったルールが、時代遅れになった瞬間」の問題として描いています。

この問題は、組織の中にも普遍的に存在します。過去に成功したやり方を守ろうとするほど、変化に対応する力が失われていく。しかし、その「正解だったもの」を変えることには、強い抵抗感が伴います。なぜなら、そのルールを作った人たちの善意まで否定しているような感覚を生むからです。

著者らはこの罠から抜け出すヒントとして、「現状維持の最大の受益者は誰か」を問うことを勧めています。住宅が足りなければ、すでに家を持っている人の資産価値は上がり続けます。インフラ整備が遅れれば、既存業者の競争圧力は下がります。変化を阻むルールは、多くの場合、現状の勝者を守る機能を持つようになっていくのです。

組織と社会に共通する「停滞のメカニズム」

本書を、日本や自分たちの組織に当てはめて読むと、さらに深い示唆が得られます。

「善意のルールが積み重なって、やがて機能不全を生む」という現象は、アメリカだけの問題ではありません。手続きが増えるほど意思決定が遅くなる、承認フローが複雑なほどリスクを取りにくくなる――これは日本の行政にも、多くの企業組織にも当てはまる構図です。

著者らが「プロセス至上主義の打破」を訴えるとき、その言葉は国家政策の話にとどまりません。あなたの職場で起きている「決まらない会議」「通らない提案」「変わらない旧来のやり方」――その背景に潜む構造と、本書が描く社会の停滞は、驚くほど同じ論理で動いています。

停滞の原因は、悪意よりも善意の蓄積にある。この視点は、変化を起こそうとするすべての人に、問い直しのきっかけを与えてくれます。

豊かさは、作り出すものだ

本書が最終的に訴えるのは、「豊かさは所与のものではなく、意図的に作り出すものだ」というメッセージです。

住宅が足りないのは土地が足りないからではない。クリーンエネルギーへの移行が遅いのは技術が足りないからではない。私たちは、自ら選択したルールによって「人為的な貧しさ」を作り出してきた。だとすれば、ルールを変えることで、豊かさを取り戻すことができるはずだ――。

この主張は、シンプルだからこそ力強く響きます。同時に、「善意で作られたルールを変える」ことの難しさを、著者ら自身も十分に認識していて、だからこそ真剣に変革の方法論を問い続けています。

本書は、社会問題をマクロな視点で語りながら、「変化を起こす」ということの本質について、じっくり考えさせてくれる一冊です。国家の政策論として読むこともできますし、組織変革のヒントとして読むこともできる。読み方次第で、いくつもの顔を見せてくれる書物です。

社会のニュースを見るたびに「なぜこんなに変わらないのか」と感じているあなたに、ぜひ手に取っていただきたい一冊です。きっと、その「なぜ」への答えが、見えてくるはずです。

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NR書評猫1154 エズラ・クライン アバンダンス 「豊かな時代」を呼びさませ

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