「あの人はアドリブが得意でうらやましい」と思ったことはありませんか。
突然の質問にも即座に答えられる同僚、想定外の事態が起きても動じずに代替案を出せる上司、予定が崩れても場を盛り上げ続けられるリーダー……。そういった人たちを見て、「あれは生まれつきの才能だ」「自分には無理だ」と感じたことがある方は少なくないはずです。
でも、それは本当に才能なのでしょうか。
映画監督・飯塚健さんの著書は、その思い込みを鮮やかに裏切ってくれます。即興力の正体は、実は準備の深さにある。 本書で最も刺激的なメッセージのひとつが、この逆説です。
映画の撮影現場という、計画と偶発性がぶつかり合う極限の環境から生まれた41のヒント。今回はそのなかから、「準備と即興の関係」にまつわる核心的な洞察を深く掘り下げてご紹介します。
1. 「即興が得意な人」への誤解――世間の常識を疑う
「臨機応変に対応できる人」というと、多くの人はどんなイメージを持つでしょうか。
おそらく、細かい準備をあまりせず、その場の勢いや感覚で動ける人――そういったイメージがあるのではないかと思います。「準備しすぎると逆に柔軟性が失われる」「計画は崩れるものだから、あまり立てても意味がない」といった言葉を、職場や日常会話の中で聞いたことがある方もいるでしょう。
しかし飯塚監督は、この考え方を真正面から否定します。
準備と即興は、対立するものではありません。むしろ、徹底した準備こそが、質の高い即興を生み出す唯一の土台なのだと断言します。準備が欠如した状態での即興は、その場しのぎの妥協に過ぎない。一方、準備に裏打ちされた即興は、予定調和を超えた本物の価値を生み出します。
この視点は、映画の現場で22年以上にわたり、想定外の事態と向き合い続けてきた監督の経験から来ています。理論ではなく、現場の血と汗から導き出された言葉だからこそ、読んでいて腹に響きます。
2. 「逆ベスト」という発想――最悪の状況まで想定する準備術
では、飯塚監督の言う「徹底した準備」とは、具体的にどういうものでしょうか。
ここで登場するのが、本書の中でも特に印象的なキーワード――「逆ベスト」という考え方です。
多くの人が準備をするとき、頭の中で描くのは「こうなればベストだ」という理想的なシナリオです。晴れる、機材が揃う、相手が話を聞いてくれる……。そのベストな状態を前提に、段取りを組んでいく。しかしその前提が崩れた瞬間、準備のすべてが宙に浮いてしまいます。
飯塚監督が提唱するのは、それとは逆の発想です。「もし最悪の状況になったとして、そのときに何ができるか」まで事前に考えておく。雨が降る、小道具が届かない、キャストが体調を崩す――そういった「逆ベスト」の状況を丁寧にシミュレーションしておくことで、それが実際に起きたとき、慌てずに動けます。
これは「悲観的に考えよう」という話ではありません。あらゆる状況に対応できる引き出しを、事前に作っておくという極めて能動的な準備の姿勢です。想定外を想定しておく。 その一手間が、現場での即興力を劇的に高めます。
3. 山田孝之という人間――不快感を演技に変えた俳優の秘密
本書の中でわたしが最も繰り返し読み返したエピソードが、俳優・山田孝之さんについての観察です。
山田さんは、撮影現場がどれほど過酷な状況でも、それに不満を漏らさないと飯塚監督は言います。泥だらけの足元、雨でずぶ濡れになった衣服、急な段取りの変更……。そうしたひとつひとつの不快な条件を、演じている役柄の内側にある感情として瞬時に取り込んでしまう。
濡れた衣服の重さが、役の「疲弊感」になる。滑る足元が、役の「焦り」になる。台本に書かれたセリフよりも、ずっとリアルな表現が生まれる。それは台本の外側から、現場の現実そのものが役にしみ込んでいく瞬間です。
ここで注目したいのは、山田さんがこうした即興を天才的な勘で行っているわけではないという点です。飯塚監督の分析は鋭い。演じる役を深く理解しているから、軸がぶれない。 どんな変化が起きても、役の本質を見失わないという圧倒的な準備があるから、何が起きても即座に対応できる。
準備の深さが、即興の質を決める。山田さんのエピソードは、その法則を体現しています。
4. 「場当たり対応」と「本物の即興」――決定的な違いはどこにあるか
ここで少し立ち止まって、「場当たり的な対応」と「準備に裏打ちされた即興」の違いを整理してみましょう。
表面的には、どちらも似て見えます。計画が崩れ、その場で判断を下す。でも、その後に生まれる結果は大きく異なります。
場当たり対応は、目の前の問題を「とりあえず収める」ことを目的とします。深く考える余裕がないため、最低限の対処に終始し、プロジェクトの本来の目的や品質が犠牲になりやすい。その場はしのげても、後になって「あのとき別の選択肢があったのに」と後悔することが多い。
一方、本物の即興は違います。目的の核がしっかりと頭の中にあるため、どんな状況でも「この目的を達成するために、今の状況を使うとしたらどうか」という問いへと思考が自然に向かいます。雨が降れば、それを使う。小道具がなければ、ないことを活かす。与えられた条件を否定するのではなく、丸ごと受け取って、目的のために再構成する。
この差は、ほぼ準備の差です。目的への理解が深いほど、どんな状況でも道が見える。 飯塚監督はそれを22年間の現場経験から確信しています。
5. ビジネスの現場でも同じことが起きている
映画の話ばかりしてきましたが、これはビジネスの現場でも全く同じ構造です。
たとえば、クライアントとの重要な商談の場で、想定外の質問を受けたとします。準備が浅い人は、頭が真っ白になるか、あるいは質問をごまかそうとします。一方、自社のサービスの本質や顧客の根本的な課題を深く理解している人は、想定外の質問を受けても動じません。「その質問は本質を突いていますね」と受け止め、軸がぶれないまま即座に応答できます。
マーケットが急変したとき、競合が予想外の動きを見せたとき、プロジェクトの前提が崩れたとき――そういった局面で機敏に動ける人は、「勘がいい人」ではなく、平時から自分の仕事の根幹を深く理解している人です。
飯塚監督が本書で伝えようとしているのは、まさにこのことです。想定外に強くなりたいなら、まず「逆ベスト」まで含めた準備を深めることです。そして何より、自分が取り組むプロジェクトや仕事の、根源的な目的を言語化できるほどに理解しておくことです。
6. 今日から始められる「準備の習慣」――本書から学ぶ実践的な一歩
では、具体的に何をすればよいのでしょうか。
本書から読み解ける実践のポイントは、シンプルです。まず、次の重要な予定や仕事に向けて準備するとき、「ベストな状況」だけでなく「逆ベストな状況」もセットで考えてみることです。「もし当日、これが使えなくなったら?」「もし相手がまったく違う要求を持ってきたら?」――そこまで考えておくと、実際に何かが起きたとき、「あ、これはシミュレーション済みだ」という感覚で動けます。
次に、自分が取り組む仕事の「根本の目的」を一文で書き出してみることをおすすめします。細かい段取りではなく、本質です。「この仕事は、最終的に誰の何の役に立つのか」を言葉にしておくと、手段が崩れてもゴールへの道が見えやすくなります。
準備とは、理想のシナリオを描くことではありません。 どんな状況が来ても揺れない軸を育てること――それが本当の準備です。
『晴れのシーンを撮る日に、雨が降ったら?』は、映画監督という一見特殊なキャリアの経験談でありながら、そこから引き出される洞察は驚くほど普遍的です。即興とは才能ではなく技術であり、技術は準備によって育てられる。その確信が、読むたびに新鮮に響いてきます。ぜひ手に取って、あなた自身の準備と即興の関係を見つめ直すきっかけにしてみてください。

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