あなたのチームにも、心当たりはありませんか。会議でデータをしっかり準備してきて、発言の機会さえあれば鋭い意見を言えるはずの部下が、いざ場が始まると黙ったまま座っている。「なぜ言わないのか」と後から聞くと、「言っても変わらないと思って」と返ってくる。
これは個人の資質や積極性の問題ではありません。橋本治さんの著書『上司は思いつきでものを言う』は、この現象の背景に、日本の職場が抱える深刻な「二重構造」があることを指摘しています。建前と本音が真っ向からぶつかる、その矛盾のメカニズムを知ることが、チームを機能させる第一歩になります。
「能力主義」と「年功序列」が同時に走っている矛盾
日本の多くの企業が、今日もこんなことを言っています。「わが社は実力主義です」「成果を出した人間が評価される仕組みです」「年齢や年次に関係なく、意見を言える風土を大切にしています」。
しかし現実の職場では、どうでしょうか。新しいプロジェクトのやり方を変えようと若手が提案すれば、「もう少し経験を積んでから」とやんわり封じられる。数字に基づいた改善案を出しても、「うちのやり方には合わない」の一言で却下される。そして何より、そういう流れになっても誰も声を上げない。
橋本治さんはこの現象を、二つの思想体系が一つの組織の中で同時稼働している問題として分析しています。西洋から輸入された「能力主義・民主主義」という論理と、日本社会の深層に根付いた「長幼の序を重んじる儒教的価値観」という論理。この二つが、表と裏に貼り合わさったまま動いているのが、日本の職場なのです。
「時期尚早」という言葉が生まれる理由
二つの論理が衝突したとき、組織は具体的にどう動くのか。著者の指摘する典型パターンがあります。
たとえば、年功序列で管理職に就いた上司のもとに、データ分析が得意な若手がいるとします。彼は顧客データをもとに、今の営業手法を改善すれば受注率が1.5倍になるという試算を持ってきました。内容は論理的で、数字も裏付けが取れています。
建前の能力主義に従えば、「良い提案は歓迎すべき」です。しかし組織の本音である儒教的秩序は、下から上への意見具申をひどく居心地悪く感じさせます。だから出てくる言葉が、「もう少し検討を重ねよう」「今は時期尚早だ」「他の部署の動きも見てから」というものになる。決定は先送りにされ続け、提案した本人はやがて提案するのをやめます。
組織は能力主義を掲げながら、能力を殺す。これが著者の言う、日本の職場の構造的な自己矛盾です。
優秀な人ほど早く「黙る」を学ぶ
ここにもう一つ、見逃せない現象があります。
組織の二重構造を肌で感じるのは、たいてい優秀な人間です。思考力があるから、「ここで意見を言っても通らない」という空気の読み方が早い。学習能力が高いから、「沈黙の方が得だ」という結論に素早く達します。結果として、最も発言してほしい人が最も早く口を閉じる、という逆転現象が起きます。
一方で、空気を読まずに発言し続ける人間は、空気が読めない人として見られてしまいます。能力と発言力が反比例する。それが二重構造の職場の特徴です。管理職の立場から見ると、なぜ優秀な部下が何も言わないのかという疑問が湧きますが、その答えはシンプルです。彼らは、言っても変わらないことを経験から知っているのです。
昇進したばかりの管理職が陥りやすい罠
ここで、昇進して間もない管理職の方に特に考えていただきたいことがあります。
自分が部下だったころ、「もっと意見を聞いてほしい」と感じた経験がある方は少なくないはずです。「あのときの上司のようにはなりたくない」と、心に誓ったこともあるかもしれません。ところが管理職になったとたん、自分でも気づかないうちに同じ構造の再生産者になってしまう。これが二重構造の怖いところです。
意識していないだけで、部下の発言に対して「うちのやり方では……」「もう少し様子を見て……」と返していることはないでしょうか。これは個人の意地悪ではなく、組織の思想的な慣性力がそうさせているのだと橋本治さんは説きます。自分が儒教的秩序の担い手になっていることに、多くの管理職は気づいていません。
二重構造を知ることが、チームを変える第一歩
では、この二重構造の中でどうすればよいのか。
著者が強調するのは、まず「自分の職場がこの矛盾を抱えていると認識すること」です。問題の所在が見えていない管理職は、部下の沈黙をコミュニケーション能力の問題として片付けてしまいます。しかし本質は、「発言しても報われない」という組織的な学習をさせてしまっていることにあります。
認識できれば、行動は変わります。部下の提案に対して一言添えるだけでも、チームの空気は少しずつ変わります。意見を却下するときも、提案のどこが良くて、なぜ今は採用できないのかを丁寧に説明することで、次の提案を引き出せます。部下の沈黙を仕方ないで終わらせないこと。その一歩が、二重構造の呪縛を解く糸口になります。
「説明のできない却下」をなくすだけで職場は変わる
本書の魅力は、難しい歴史的・思想的な分析を、日常の職場風景に着地させてくれる点にあります。読み終えたとき、「なぜあの会議はいつもああなるのか」「なぜ優秀な部下ほど口数が少くなっていくのか」という長年の疑問に、腑に落ちる答えが見えてきます。
能力主義と儒教的秩序という二つのOSが組織の中で衝突し続けているかぎり、部下の沈黙は続きます。しかしその構造を知った管理職は、少なくとも「説明のできない却下」をなくすことができます。それだけで、チームの発言量は確実に変わります。
部下の信頼を得ることを目標にしているなら、ぜひ本書を手にとってみてください。日々の会議の場面が、きっと違って見えるはずです。

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