「このまま会社が続くだろうか」「部下との関係がぎこちない」「家族のために安定した収入を守らなければ」――そんな不安を抱えながら、今日もスーツに袖を通したことはありませんか。
毎朝の満員電車、意味のわからない会議、二代目社長の思いつきで変わる方針……。それでも歯を食いしばって耐えているのは、住宅ローン、子どもの教育費、家族を守るためです。その重さは本物です。あなたが恐れているのは、決して弱さではない。
松永K三蔵の芥川賞受賞作『バリ山行』は、そんなあなたに鋭い問いを突きつける小説です。「あなたが恐れている危機は、本当に本物の危機なのか?」と。この記事では、本書のポイントである「二重の危機」という視点から、現代のビジネスパーソンが見落としがちな実存の問いを読み解いていきます。
会社が揺らぐとき、人間は何を恐れているのか
物語の舞台は、関西にある建物外装修繕の零細企業「新田テック建装」です。主人公の波多は、前の職場で人間関係に傷ついた経験から、転職先では余計な軋轢を避け、ひたすら目立たず安全に働くことを信条としていました。部下からの信頼を得ようとするでもなく、上司に気に入られようとするでもなく、ただ「生き残ること」を最優先にする――その姿は、どこかあなた自身と重なるかもしれません。
そんな波多の日常を揺さぶるのが、二代目社長の唐突な事業転換です。長年積み上げてきた取引先との信頼関係、培ってきたノウハウ、すべてが一夜にして「無効」になりかねない現実。リストラの噂、社員同士の疑心暗鬼、静かに広がる閉塞感……。波多が懸命に守ってきた安定した日常が、足元から崩れ始めます。
この描写は、現代日本のビジネスパーソンならばおそらく肌で感じているはずの恐怖です。大企業でも中小企業でも、「明日も同じ日常が続く保証」など、実はどこにも存在しない。それでも私たちは、その保証があるかのように生きています。
道なき道を歩く男が持つ、奇妙な安らかさ
波多の職場に、妻鹿という中堅社員がいます。腕は確かだが、組織の論理には一切興味を示さず、会社の危機にも動じない。彼だけがいつも飄々としていて、週末になると六甲山の深部へ消えていきます。
妻鹿が親しんでいるのは、観光客が歩くような整備された登山道ではありません。道標も鎖場もない「バリエーションルート」――通称バリ山行と呼ばれる、自分で道を切り拓きながら進む危険な登山です。足を踏み外せば滑落。藪に囲まれ、崖にへばりついて、全身の感覚を研ぎ澄ませながら生き延びる。そこには、ガイドブックも安全装置もありません。
会社が傾き始め、波多の焦燥が高まるにつれ、彼は妻鹿の生き方に奇妙な魅力を感じるようになります。なぜ、あんなに危険な場所に自ら飛び込んでいくのか。そしてなぜ、あの男だけが揺るがないのか――その謎に引き寄せられるように、波多はついに妻鹿のバリ山行への同行を申し出ます。
「本物の危機」をめぐる、二人の激突
物語のクライマックス、波多は妻鹿とともに六甲山の奥深くへ踏み込みます。岩肌を這い、泥に塗れ、足がかりを探しながら崖を越える。その過程で波多は、日常ではありえない極度の恐怖と肉体的限界を体験します。
ようやく危険な地帯を抜け出したとき、妻鹿は波多にこう語りかけます。「あれは本物だったでしょ?本物の危機、あれだよ」と。妻鹿が言う「本物の危機」とは、滑落すれば即死という生物学的な生命の脅威です。人間が動物としての本能をむき出しにして、全身全霊で生き延びようとする瞬間。その瞬間に触れることでしか、自分が生きているという実感を得られない――それが妻鹿の信念でした。
しかし、波多は激しく反論します。山は遊びですよ、遊びで死んだら意味ないじゃないですか、本物の危機は山じゃなくて街だ、生活だ――と。妻鹿が自由を謳歌できるのは、守るべき家族も、払うべきローンも持たないからだ。そう波多は叫ぶのです。
あなたが恐れている「危機」は、どちらですか
この二人の対話は、読む者の胸にずしりと響きます。なぜなら、ほとんどの人は波多と同じ側にいるからです。
会社が潰れたら、ローンが払えない。収入が途絶えたら、家族を養えない。昇進できなければ、部下からの信頼も失う。これらは確かに深刻な危機です。現代社会において、経済的基盤の崩壊がもたらす社会的な「死」は、生活のすべてを蝕みます。波多の叫びに共感するのは、決して弱さではなく、現実をきちんと見ている証拠です。
一方で、妻鹿の言葉も心のどこかを刺します。毎日、意味のわからない会議に出て、上司の顔色を読んで、部下との関係に頭を悩ませる――その繰り返しの中で、自分が本当に「生きている」と感じる瞬間が、いつ最後にあったか覚えていますか。本書は、その問いを静かに突きつけます。
安定という地盤は、実は砂の上に建っている
本書が鋭いのは、波多が必死に守り抜こうとした安定の脆さを、物語が容赦なく暴いていくところです。どれほど組織の論理に従い、人間関係を慎重にこなし、爪を隠して生き延びようとしても、二代目社長の一言で会社の方向性はがらりと変わります。
安定していたはずの地盤は、借り物の足場に過ぎなかった――本書はそう告げます。
これは、ITの現場でも同じことが言えます。技術の急激な変化、組織の再編、中間管理職として板挟みになりながら揺れないように踏ん張る。その姿は、波多が岩壁に爪を立てる姿と、実はさほど変わりません。
本書を読むことで気づかされるのは、「安定を守ること」と「生きている実感を持つこと」は、必ずしも同じ方向を向いていないということです。どちらかを選べということではありません。ただ、両方から目を背けないことが大切なのかもしれません。
純文学がビジネスパーソンに響く理由
『バリ山行』は第171回芥川賞を受賞した純文学作品ですが、難解さとは無縁です。関西の零細企業を舞台にしたお仕事小説としても読め、登山の経験がない人でも山の怖さと高揚感が肌でわかる描写が続きます。
芥川賞の選考委員・小川洋子は、肉体の迷路を進み、言葉の消え失せた地まで行き着かなければ小説は書けないのかもしれない、と本作を評しました。本書は、日常の言語や社会的な役割が剥落した場所で、人間の輪郭をくっきりと描き出しています。
管理職として毎日を送る中で、ふと「自分は何のために働いているのだろう」と立ち止まることがあるならば、この小説はそのための一冊になります。怒涛のように展開するクライマックスでは、波多の叫びと妻鹿の静けさが交差し、読む者は自分自身の「本物の危機」と静かに向き合わされます。日々の仕事に追われ、家族への責任を背負いながら、それでも自分の生き方を問いたいと感じているあなたに、ぜひ手に取ってほしい一冊です。

コメント