「あの頃に戻りたい」という感情が、あなたのリーダーシップを静かに壊している

昇進したばかりのあの日、あなたは確かに「よし、やってやろう」と思ったはずです。ところが現実は、部下との距離感に悩み、会議での発言がうまく伝わらず、家に帰れば妻との会話もかみ合わない。「なんでこんなに上手くいかないんだろう」と、夜中にそっとため息をついたことが、一度や二度ではないかもしれません。

そして、ふと思うのです。「昇進する前の、ただのチームメンバーだったあの頃に戻れたら」と。失敗する前の自分、傷つく前の自分、まだ何も背負っていなかった自分……。そんな「もし戻れたら」という気持ち、あなただけが感じているわけではありません。

安堂ホセの最新作『dtopia』は、まさにその「時間を巻き戻したい」という現代人の衝動を、鮮烈な言語で解剖した小説です。芥川賞を受賞したこの作品には、IT業界で働くあなたの日常にも深く刺さる一言が登場します。今回はその言葉を出発点に、リーダーとして前に進むためのヒントを読み解いていきます。

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「キーフレームを打つ」という言葉の衝撃

動画編集の仕事をしたことがある方なら、「キーフレーム」という言葉はなじみ深いでしょう。アニメーションや映像の編集ソフトで、動きや状態の変化する重要な地点に打ち込むマーカーのことです。キーフレームを打てば、その瞬間の状態を正確に記録・保存でき、後からいつでも同じ状態に戻せます。

作中の登場人物は、こんなことを言います。

「今がまあまあ幸せだとして、そこにキーフレームを打つでしょ。で、いろんな失敗が起きる前の自分にも、キーフレームを打つ。」

これを初めて読んだとき、背筋がひやりとしました。現代の私たちは、自分の人生にもキーフレームを打ちたいと、無意識に願っているのではないか――そう気づかされたからです。

うまくいっていた時期の仕事の進め方、まだ部下に頼られていた感覚、家族との食卓での笑顔。それらをデータのように保存して、いつでも「あの状態」に戻れたら、どれほど楽だろうか。この感覚は、IT業界で日々デジタルデータを扱うあなたにとって、特に共感しやすいものかもしれません。

現代人が「Ctrl+Z」を求める理由

表計算ソフトやワードプロセッサには「元に戻す」機能があります。「Ctrl+Z」一つで、直前のミスをなかったことにできる。この便利な操作に慣れ切った私たちは、いつしか仕事でも、対人関係でも、同じことを求めるようになっていないでしょうか。

この感覚は、デジタルネイティブな時代に特有のものとも言えます。バックアップを取れば何度でもやり直せる。バージョン管理すれば以前の状態に復元できる。そうした可逆性の文化の中で生き、働いていると、現実の人間関係や自分の経験までも、同じように扱えるものだと、どこかで思い込んでしまうのです。

しかし現実は違います。部下との間に生まれたすれ違いは、Ctrl+Zでは消せません。会議で感じた気まずさも、プレゼンで伝わらなかった悔しさも、すべて現実の時間の流れの中に刻まれていきます。『dtopia』の主人公もまた、中学時代からずっと「体だけ時間を止めたい」と願い続けます。しかし身体は、データとは違って、巻き戻しを受け付けません。

「止められない変化」と向き合うことで生まれるもの

作中の衝撃的なエピソードを通じて、安堂ホセが描くのは「変化の不可逆性」という、人間にとって根本的な現実です。成長すること、傷つくこと、年を重ねること――これらはいかなるテクノロジーをもってしても止めることができません。

あなたが管理職になったのも、一つの「不可逆な変化」です。その変化を内心では恐れながらも、外では平静を装っているとしたら、部下はどこかでその矛盾を感じ取っているかもしれません。人間の感受性は、言葉よりも繊細なものを受信します。

自分も実は怖い――そう認められること。それが、逆説的に信頼の土台になります。完璧に見せようとするリーダーより、まだ試行錯誤中だと正直に向き合えるリーダーのほうが、部下は安心して失敗を報告できるようになります。不可逆な変化を受け入れた姿勢が、チームに心理的な安全をもたらすのです。

「幸せな瞬間を保存したい」という感覚の正体

「今がまあまあ幸せだとして、そこにキーフレームを打つ」という言葉の背後には、もう一つの感情が隠れています。それは、「今の状態がいつか崩れることへの恐怖」です。

家族との関係がうまくいっている、部下との関係がまあまあ良好、自分のパフォーマンスが安定している……そんな「まあまあ良い状態」が続いているとき、人は無意識にその状態を固定しようとします。現状を変えることが怖いのです。新しい試みをして失敗するくらいなら、今の安定をそっと守り続けたほうがいいと。

しかし皮肉なことに、変化を恐れて現状に固執する姿勢は、組織をじわじわと停滞させます。IT業界では特に、昨日まで有効だった手法が今日には通用しなくなることも珍しくありません。現状維持は後退と同義と言われるのは、そういう理由からです。

「キーフレームを打ちたい」という衝動を感じたとき、それは現実から目を背けたいサインかもしれません。その感情に気づくだけで、少し立ち位置が変わります。

文学が照らし出す、デジタル時代の心の病

『dtopia』という作品が優れているのは、テクノロジーの言語を使って人間の内面を描いている点です。「キーフレーム」はその最たる例ですが、安堂ホセはこの小説全体を通じて、現代人がデジタルの論理で自分の人生を管理しようとすることの、根本的なずれを照らし出しています。

人間の時間はデータではありません。感情は圧縮・解凍できません。信頼関係はコピー&ペーストで作れません。それでも私たちは、システムを扱う感覚で自分の内面やチームをコントロールしようとしてしまいます。

純文学を読む意義の一つは、まさにここにあります。効率やロジックでは割り切れない「人間のリアル」に、言葉の力で近づいてくれるのが文学です。ビジネス書とは違い、答えを与えてくれるわけではありません。しかし、問いの立て方を根本から変えてくれる――それが、芥川賞作品を読む醍醐味でもあります。

「失敗した自分」を保存する勇気

最後に、この小説から得た一番大切な気づきをお伝えしたいと思います。

「キーフレームを打ちたい」という欲望を、完全に否定する必要はありません。人が良い記憶を大切にしたいと思うのは、ごく自然な感情です。ただ、「失敗する前の自分」「傷つく前の自分」だけをキーフレームとして保存しようとするとき、私たちは成長を止めているのかもしれません。

本当に保存する価値があるのは、失敗した後にどう立ち直ったか、傷ついた後にどう部下に向き合ったか――そのプロセスのほうではないでしょうか。うまくいかなかった会議の翌日、「昨日の言い方はよくなかった。もう少しこうすればよかった」と一言添えられたとき、部下はその上司を信頼します。

失敗した自分を隠さずに見せること――それは、完璧であろうとするより強い姿勢です。安堂ホセの新作は、その難しさを、鋭利な言葉で突きつけてくる一冊です。管理職として壁にぶつかっているいま、ページを開く価値は十分にあります。

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NR書評猫1243 安堂ホセ dtopia

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