毎日の通勤電車に揺られながら、ふと思うことはありませんか。このまま定年まで同じ生活を続けていくのだろうか、本当にこれが自分の望んだ人生なのだろうかと。人気作家・小川糸さんの最新エッセイ集『いとしきもの 森、山小屋、暮らしの道具』は、そんな迷いを抱えるあなたに、人生を大きく変える勇気を与えてくれる一冊です。著者が5年前に経験した人生の転機と、そこから始まった森での新しい暮らしの物語は、都会で働く私たちに大切なことを思い出させてくれます。
人生最大の危機が導いた運命の出会い
5年前、コロナ禍の真っ只中でパートナーとの別れを経験した小川糸さんは、どうやって生きていこうかと苦しんでいました。その時、著者は美しい長野の森と運命的な出会いを果たします。石ころだらけの土地でしたが、その場所に強く惹かれた著者は、人生を賭けた大きな決断をします。
それは40代後半で運転免許を取得し、山小屋を建てて都会から森へ移住するという選択でした。約30年間、環境意識から車を運転せずに生きてきた著者が、新しい人生のために考え方を変えたのです。周囲から「今さら遅い」と心配されたものの、著者は「むしろ今だから正解だった」と語ります。
この決断の背景には、深い絶望がありました。著者自身が「5年前のコロナの頃、私は本当に瀕死の状態でした」と振り返っているように、人生のどん底で出会った森が、彼女を救ったのです。
年齢や常識に縛られない生き方への挑戦
運転免許の取得は、著者にとって大きな挑戦でした。しかし必要に迫られて始めた運転は、やってみなければわからないことがまだまだあるという気づきをもたらしました。エコな車や安全技術の進歩もあり、想像していたより安心して運転できることを知ったのです。
このエピソードから学べることは多くあります。私たちは年齢を重ねるにつれ、新しいことへの挑戦を躊躇しがちです。「もう遅い」「今さら無理だ」という言葉で、自分自身に制限をかけてしまいます。しかし著者の経験は、年齢や固定観念にとらわれず新しい一歩を踏み出す勇気の大切さを教えてくれます。
仕事でも同じではないでしょうか。新しいプロジェクトや役職を任されたとき、「自分には無理かもしれない」と思ってしまう。でも実際にやってみると、想像していたより自分にはできることがあると気づくものです。
頑丈で温かく優しい家という人生の礎
森での暮らしを始めるにあたり、著者は建築家に山小屋の設計を依頼します。そのとき著者が求めた条件は、頑丈で、温かく、優しいというものでした。まるで結婚相手に求めるような条件だったと、本書では表現されています。
一人で暮らす前提だからこそ、家には頑丈さ、つまり安心して身を委ねられる守りが必要でした。そして温かさと優しさ、つまり心地よく長く住める空間であることも重視しました。さらに著者は「せっかく自然の木を切って建てるのなら短命な家にはしたくない」という信念から、地元産のカラマツ材をふんだんに使い、百年先も残る家を目指したのです。
この家づくりへの強いこだわりは、単なる住まい作りではありません。著者にとって人生の新たな礎を築く行為だったのです。私たちも同じように、自分の人生を支える土台を大切にしなければなりません。それは物理的な家だけでなく、心の拠り所となる価値観や信念かもしれません。
森が教えてくれた本当の豊かさ
都会での暮らしから森へ移住した著者は、自然の厳しさと美しさの両方を体験します。激しい雨風や厳しい寒さに向き合う一方で、壮大な山々の美しさに心を奪われ、自分の存在が小さく感じられる体験を重ねました。その中で世界の見え方が変わり、自分自身も変化していくのを感じるようになったといいます。
著者は「自然には自然治癒力のようなものが備わっていて、そこからエネルギーをもらって元気になっている部分があるのかもしれない」と述べています。森で過ごす静かな時間が増えることで、亡き両親との思い出が蘇ったり、過去の出来事が違う角度から見えてきたりする変化も生まれました。
都会で忙しく働いていると、立ち止まって考える時間がなかなか取れません。しかし本当は、そういう内省の時間こそが人生には必要なのかもしれません。週末に少し自然の中を歩いてみる、公園のベンチで空を眺めてみる、そんな小さな時間が心を癒してくれることもあるでしょう。
後悔しない人生を選び取る勇気
本書は冒頭から力強い一文で始まります。自分の人生は、もういつ終わっても後悔することはないだろうという言葉です。これは著者が森での暮らしを通じて得た確信です。
著者は「人生は意外とあっという間です」と述べ、心豊かな人生を送るためには、やりたいことや欲しいものを先送りせず、なるべく長くそれらと人生を共にすることが幸福に繋がるという教訓を語ります。コロナ禍で塞ぎこんでいた自分を救った森との出会いをきっかけに、著者は後悔のない選択を重ねて今の暮らしを手に入れました。
私たちはついつい「いつか」「そのうち」と先延ばしにしがちです。定年後にやろう、子供が独立したらやろうと。しかし本当にその時が来たとき、自分にはまだ体力や気力が残っているでしょうか。やりたいことは今やる、会いたい人には今会う、伝えたい言葉は今伝える。そんな生き方の大切さを、本書は教えてくれます。
森の暮らしが示す新しい価値観
標高1600メートルの原生林という過酷な環境で、一人で安心して暮らせる頑丈な山小屋を建てるプロセスは、本書の大きな見どころです。長年の夢であった自然のそばで暮らすことを実現するため、著者は決断と行動を重ねていきました。
森での暮らしを始めてから4年が経った今、著者はひとりの自由と責任をどのように感じているのでしょうか。本書には、その答えが穏やかな筆致で綴られています。何気ない日々の記録こそが読む者の心を洗い清めてくれると評されるほど、本書全体には清新で穏やかな空気が流れています。
著者の生き方は、私たちに問いかけています。本当の豊かさとは何か、幸せとは何か。高い年収や社会的地位だけが人生の成功ではないのかもしれません。自分らしく生きること、後悔のない選択をすること、そして自然や人との繋がりを大切にすること。そういった価値観を見直すきっかけを、本書は与えてくれます。

コメント