あなたは日々の仕事に追われながら、ふとこんなことを考えたことはありませんか。「自分たちの子どもや孫の世代は、本当に豊かな環境で暮らせるのだろうか」と。気候変動、食料問題、資源の枯渇。ニュースで流れる課題は大きすぎて、自分には何もできないように感じてしまいます。しかし、藤井一至氏の「土と生命の46億年史」は、そんな私たちに意外な視点を与えてくれます。それは、私たちの足元にある「土」という存在から、人類の持続可能性を考え直すという視点です。本書が投げかける「我々は土を創れるか」という問いは、単なる科学的な好奇心ではなく、私たちの子孫が生き延びられるかどうかという、切実な問題なのです。
土を創れないという衝撃的な事実
現代の科学技術は驚異的な進歩を遂げています。AIは人間の知能に迫り、遺伝子編集技術は生命の設計図を書き換え、宇宙開発は他の惑星への移住を現実的な選択肢として視野に入れています。しかし、そんな私たちが創り出せないものがあります。それが「土」です。
藤井氏は本書の冒頭で、現代の科学技術をもってしても作れない二つのものとして「生命」と「土」を挙げています。土とは、岩石が崩壊して生成した砂や粘土と、生物遺体に由来する腐植の混合物です。自然の営みによって1センチメートルの土が作られるのには、100年から1000年もかかるのです。
この事実は、私たちが当たり前だと思っている足元の大地が、いかに貴重で再現不可能なものであるかを教えてくれます。毎日通勤で歩く道、子どもたちが遊ぶ公園、週末にゴルフを楽しむコース。そのすべてが、気の遠くなるような時間をかけて形成された、かけがえのない存在なのです。
持続可能な農業への切実な問いかけ
本書が投げかける「我々は土を創れるか」という問いは、現代社会が直面する最も喫緊の課題と直結しています。世界の人口は増加を続け、食料需要は高まる一方です。しかし、農業の基盤となる土壌は劣化の一途をたどっています。
藤井氏が指摘するのは、持続可能な農業を実現するためには、土壌の劣化速度を上回る速度で再生させる技術が不可欠だという点です。化学肥料や農薬に頼る現代農業は、短期的には生産性を向上させますが、長期的には土壌の健全性を損ないます。土壌生成を加速する技術として、例えば隣の天然林の土を借りてきて荒地にまくという方法が効果があるとされていますが、これも根本的な解決策とは言えません。
この課題は、都会で働く私たちにとって遠い話に思えるかもしれません。しかし、子どもたちの教育費や将来の生活を考えるとき、安定した食料供給は経済の基盤そのものです。土壌の劣化は、食料価格の高騰を通じて、私たちの家計に直接影響を及ぼす可能性があるのです。
宇宙開発が突きつける技術的限界
土を創れないことの問題を最も深刻に受け止めているのがNASAです。火星や月で長期的に暮らすテラフォーミング計画を実現するためには、土が欠かせません。しかし、地球から持っていくには土は重すぎます。
NASAは火星で入手できる素材で食料を生産しようと研究を進めています。すでに火星の砂を再現した土を作成し、研究者たちはミミズの飼育と野菜栽培に成功しています。しかし、それは火星と同じ地質のハワイの溶岩を砕いただけの代物であり、真の意味での土とは異なります。
藤井氏自身も指摘するように、土のない所にジャガイモは育ちません。はじまりはいつもコケです。宇宙線に耐えられるコケ植物を選抜し、そのコケ植物と火星の砂で土を作る研究が進められています。地球外惑星でも利用できる人工土壌のレシピが、真剣に必要とされているのです。
この宇宙開発の視点は、私たちに重要な示唆を与えてくれます。もし人類が他の惑星で土を創り出せないなら、地球の土をどれだけ大切にすべきか。そして、もし困難な条件で土を創る技術が開発できれば、地球の劣化した土壌の再生にも応用できるはずだという希望です。
技術的進歩と生態学的知恵のギャップ
本書が鋭く指摘するのは、私たちの技術的な進歩が生態学的な知恵を置き去りにしてきたという事実です。私たちはスマートフォンで世界中の情報にアクセスでき、AIが複雑な問題を解決し、遺伝子編集で病気を治療できます。しかし、足元の土がどのように機能しているのか、そのメカニズムの多くは未だに解明されていません。
藤井氏が本書で強調するのは、大さじ一杯の土に含まれる100億個もの微生物が形成する広大で相互接続されたネットワークです。この複雑なシステムは、人間の脳の神経回路網や自己学習する人工知能にたとえられます。土が持つ自律的な物質循環能力や、生命を維持し続ける恒常性は、まさに最古にして最先端の知能なのです。
IT企業で働く私たちは、日々テクノロジーの進化を目の当たりにしています。新しいフレームワーク、プログラミング言語、開発手法が次々と登場します。しかし、46億年かけて進化してきた自然のシステムの前では、私たちの技術はまだまだ未熟だと言わざるを得ません。この謙虚さこそが、持続可能な未来への第一歩なのです。
企業人として考える土壌の価値
本書が投げかける問いは、ビジネスの世界にも重要な示唆を与えてくれます。短期的な利益を追求するあまり、長期的な基盤を損なっていないか。これは、土壌の劣化と全く同じ構造です。
東京大学とクボタ、パナソニックは、土壌微生物機能制御・利用学に関する研究を開始しています。土壌中に生息する微生物群が有する物質変換機能や生物間作用などの生態系機能を解析し、それを制御・利用することで、農薬や化学肥料の投入を最小限に抑え、環境負荷低減ならびに地球温暖化抑止に寄与する作物生産技術を開発しようとしています。
これは、技術革新が生態学的知恵と結びついた好例です。企業が持続可能性を追求するとき、単なる環境配慮のスローガンではなく、自然のシステムから学び、それを活用する姿勢が求められています。私たち一人ひとりも、日々の仕事において、短期的な成果だけでなく、長期的な価値創造を意識する必要があるのではないでしょうか。
子どもたちの未来のために今できること
本書を読んで最も心に残るのは、これが単なる科学書ではなく、私たちの子孫への問いかけだという点です。中学生の息子さん、小学生の娘さんがいるあなたにとって、彼らが大人になる頃の世界がどうなっているか、それは決して他人事ではありません。
藤井氏が強調するのは、土に関するリテラシー、すなわち土を読み解く力を育むことの重要性です。これはもはや農業従事者や科学者だけの専門的な営みではなく、文明と地球の未来に関心を持つ全ての市民にとっての、基本的かつ重大な責務なのです。
私たちにできることは何でしょうか。まずは、足元の土に関心を持つことです。週末に子どもたちと公園を散歩するとき、土の色や匂い、そこに生きる小さな生き物たちに目を向けてみる。家庭菜園を始めて、土と向き合う時間を持つ。そして、本書のような科学的な知見に触れ、土の価値を理解し、その知識を次の世代に伝えていくことです。
未来への希望と責任
本書は悲観的な警告で終わるのではなく、希望と責任を私たちに託しています。人類は土を完全に再現することはできないかもしれません。しかし、土壌劣化を遅らせ、土壌の健全性を維持し、部分的にでも土壌生成を加速する技術を開発することは可能です。
NASAの研究者たちが火星の砂で野菜を育てようとする挑戦、日本の研究機関が土壌微生物の機能を解明しようとする努力、そして藤井氏のような科学者が世界中の土を研究し続ける情熱。これらすべてが、人類の持続可能性への道を切り開いています。
そして何より重要なのは、この問いが私たち一人ひとりに向けられているという点です。企業の中間管理職として、家庭の父親として、地域社会の一員として、私たちは日々選択をしています。その選択が、子どもたちの未来を左右します。土を創れるかどうかという問いは、私たちが本当に持続可能な社会を創り出せるかどうかという、より大きな問いの象徴なのです。
藤井一至著「土と生命の46億年史」は、私たちの足元にある土から、人類の未来を考えさせてくれる稀有な一冊です。日々の仕事に追われる中で、ときには立ち止まり、46億年の物語に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。その視点が、あなたの日常を、そして未来への向き合い方を、きっと変えてくれるはずです。
#NR書評猫759 藤井一至著「土と生命の46億年史」

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