「明日、何人来るかなんて分からない。」飲食業や小売業に携わる方なら、一度はこう思ったことがあるのではないでしょうか。そして、多すぎた食材を捨てた経験や、足りなくてお客様を待たせてしまった苦い記憶が、誰にでもあるはずです。
しかし、三重県伊勢市の食堂「ゑびや」の経営者・小田島春樹氏は、その「分からない」を95%以上の精度で「分かる」に変えてしまいました。著書『仕事を減らせ。限られた「人・モノ・金・時間」を最大化する戦略書』には、AIによる来客予測が現場をどう変えたか、その全貌が余すところなく描かれています。勘と経験に頼ることをやめ、データで未来を見通す。その具体的なアプローチを、今回はご紹介します。
1. 「水物商売」という言い訳がなくなる日
飲食業はよく「水物」と言われます。天気一つで客足が変わり、連休の並び方で売上が大きく振れる。だからこそ「読めない」という前提のもとで、経験豊富なベテランが「なんとなく」判断し、現場を回してきました。
ゑびやも例外ではありませんでした。改革前の仕入れは、ベテランスタッフの勘に依存していました。多く仕入れすぎれば廃棄ロスが発生し、少なければ欠品で機会損失が生まれる。このサイクルが利益を蝕み続けていたのです。
そこで小田島氏が着目したのが、「予測を科学する」という発想でした。過去データと外部情報を組み合わせることで、「明日の昼は晴れで気温が25度、近隣の宿泊者数も多いから、A定食が150食出る」という粒度での予測が可能になる。これは夢物語ではなく、データを正しく使えば実現できる話なのです。
2. 予測精度95%を支える変数の多様性
小田島氏が構築した来客予測システムのポイントは、「何を変数として使うか」にあります。単純に過去の売上データを時系列で並べるだけでは、予測は精度が上がりません。本書では、売上に影響を与えうるあらゆる情報を徹底的に収集したことが語られています。
具体的に使われた変数は多岐にわたります。天気・気温・降水量・風速といった気象データは基本中の基本です。さらに、伊勢神宮の参拝客数、近隣ホテルの宿泊者数、食べログやGoogleマップへのアクセス数、SNSでの言及数、曜日・祝日・地元イベントの情報など、数百種類の変数がモデルに投入されました。
特に印象的なのは、「志摩市の宿泊者数」とゑびやの客数の間に強い相関があることを発見したエピソードです。こうした発見は、長年の経験だけでは気づけない類のものです。データは、人間の直感では見えない法則を浮かび上がらせてくれます。
3. 予測が現場を変えた:仕込みからシフトまで
精度の高い予測を手に入れることで、現場のオペレーション全体が変わりました。
まず仕込みの工程です。翌日に何食のA定食が出るかが事前に分かれば、必要な食材の量が前日の時点で確定します。これにより解凍・カットなどの前処理を最適な量だけ行えるようになり、食品廃棄ロスは70%以上削減されました。さらに、前処理を済ませた食材を使うことで提供スピードは従来の5倍に短縮されています。お客様を待たせる時間が減ることは、そのまま回転率の向上につながりました。
次にシフト管理です。「なんとなく忙しそうだから」という理由で多めにスタッフを配置する無駄がなくなりました。必要な時間帯に必要な人数だけを配置できるようになったことで、人件費率を抑えながら、スタッフの不必要な待機時間も削減できています。
これらの効果は複合的に積み重なります。廃棄ロスが減り、提供スピードが上がり、人件費が適正化される。たった一つの「予測」が、複数の経営課題を同時に解決するのです。
4. 「勘と経験」はアップデートできる
ここで一つの誤解を解いておきたいと思います。本書でのAI活用は、ベテランの勘や経験を「否定する」ものではありません。むしろ、勘をデータで補強し、アップデートするためのものです。
ベテランのスタッフが「明日は混む気がする」と感じる。そのとき、AIのデータも「混む」と示していれば、自信を持って大量の仕込みができます。逆に勘とデータの予測が食い違うなら、その差を議論するきっかけになります。データは人の経験を否定するのではなく、経験値に客観的な根拠を加えてくれる道具なのです。
職場でも似たことが言えます。長年の業務経験を持つベテランの「感覚」は非常に貴重です。しかしその感覚が正しいのかどうかを確かめる手段がなければ、過去の成功体験にとらわれたまま判断を誤る可能性があります。データという客観的な物差しを持つことで、経験は初めてその真価を発揮できるのです。
5. 中小企業でも始められる「小さなデータ活用」
ここまで読んで、「うちは伊勢神宮のような集客力がないし、Azureのような高度なシステムも使えない」と感じた方もいるかもしれません。しかし本書が伝えているのは、高度な技術を持つことではなく、まず手元にあるデータを使い始めることの大切さです。
小田島氏も最初から完璧なシステムを持っていたわけではありません。最初のステップは、エクセルで日々の売上と天気を記録するだけでした。そこから少しずつ変数を増やし、精度を高めていった。重要なのは「完璧な環境が整ってから始める」のではなく、「今ある情報で始めて、徐々に精緻化していく」というアジャイルな姿勢です。
たとえばIT企業の業務管理においても、過去のプロジェクトの工数データと案件の難易度、担当者のスキルレベルを組み合わせることで、次のプロジェクトにかかるリソースをより精度高く見積もれるようになります。予測はあらゆる業種・業務に応用できる考え方です。
6. 「未来予測」は経営だけでなく働き方を変える
本書のタイトルは「仕事を減らせ」ですが、来客予測というテーマを通じて見えてくるのは、働き方そのものの変革です。
予測が存在することで、現場スタッフは「何が起こるか分からない」という不安から解放されます。今日は何人来るか分からないまま緊張して開店するのではなく、今日は150人が来ることが分かった状態で仕込みを終えて開店する。この心理的な余裕は、サービスの質にも直結します。
さらに、予測をベースにしたシフト管理が実現すれば、スタッフは残業ゼロで帰宅できる可能性が高まります。ゑびやでは生産性向上の成果として有給100%消化を実現し、シングルマザーが主力戦力として活躍できる職場環境が生まれました。
「データで未来を見通す」ことは、単なる効率化ではありません。それは、働く人が安心して力を発揮できる職場環境を作ることでもあります。予測精度を高めることは、チームのウェルビーイングを高めることと同義なのです。
「勘と経験」を否定するのではなく、データで磨き上げる。未来を予測して、無駄を排除し、人を活かす。そのサイクルこそが、限られたリソースで最大の成果を生み出す道です。ぜひ本書を手に取り、あなたの職場でも「予測を持つ経営」の第一歩を踏み出してみてください。

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