「なんで自分はこんなに追い詰められているんだろう……」と、深夜のオフィスで一瞬だけ思い、次の瞬間には無心でキーボードを叩いていた経験はありませんか。あるいは、部下や同僚の顔つきが変わっていくのに気づきながら、声をかけるタイミングを逸し続けていたことは?
遠坂八重による長編ミステリ小説『死んだら永遠に休めます』は、そんな"あの感覚"を圧倒的なリアルさで紙の上に再現した作品です。ブラック企業の総務部を舞台に、入社6年目・28歳の限界会社員が直面する恐怖と心理崩壊を描いたこの小説。読み始めたら最後、息苦しさとともに目が離せなくなります。
腐ったみかんを片付けられない――これが「限界」の正体だった
物語の主人公・青瀬の生活を象徴するシーンがあります。実家から送られてきた段ボール箱の中で、みかんが腐敗しているのに気づきながら、それを捨てる気力すら湧いてこないのです。
「なんで捨てないんだろう」と思う方もいるかもしれません。しかし、本書を読み進めるうちにわかってきます。それは意志の問題ではありません。毎日深夜まで働き続け、上司である前川部長から暴言を浴びせられ続けた結果、人間が追い込まれる「視野狭窄」の状態なのです。
視野狭窄とは、心理的に追い詰められた際に、思考の範囲がどんどん狭まっていく状態のことです。「辞める」「休む」「相談する」という当たり前の選択肢が、頭の中から文字通り消えてしまう。青瀬の姿は、現代日本のブラックな職場環境に置かれた人間がたどる、リアルな心理プロセスを映し出しています。
著者の遠坂八重は、一般企業での勤務経験を持ちながら執筆活動を続けてきた作家です。だからこそ、机上の空論ではなく、実体験から生まれた解像度の高さが本書には宿っています。「こんな職場、あった気がする」「こういう上司、知っている」という既視感が、読む者に強烈な息苦しさをもたらすのです。
46歳・前川部長という「恐怖の象徴」が消えたとき
本書の舞台となる株式会社大溝ベアリングの総務経理本部には、前川誠という部長が君臨しています。威圧的な容貌と高圧的な態度で部下を支配し、部署内に恐怖政治を敷く人物です。部下全員が心の中で「死んでほしい」と思っている……そんな存在として描かれています。
「こういう上司、いるよね」。そう思った方は少なくないのではないでしょうか。部下の意見を無視し、理不尽な命令を繰り返し、職場の雰囲気を一人で悪化させ続ける上司。問題があることは誰もがわかっているのに、組織の構造上なかなか排除できない――その閉塞感は、日本の多くの職場で共通して存在する問題です。
ところが物語の始まりで、この恐怖の象徴である前川が突然姿を消します。「やっと解放された」と思いきや、青瀬のもとに届くのは、前川のアドレスから送られてきた一通のメール。件名は衝撃的なものでした。「私は殺されました」と書かれていたのです。
「絶対的な加害者が消えることで救われる」はずの物語は、ここから想像を絶する方向へと転がり始めます。
「逃げない」ではなく「逃げられない」――構造的な密室の恐怖
ミステリ小説にはよく「クローズド・サークル」という手法が使われます。孤島や山荘など物理的に閉じた空間に人が閉じ込められ、そこで事件が起きる設定です。しかし本書が提示するのは、物理的な密室ではありません。
「簡単には辞められないブラック企業」という、社会経済的な密室です。
妻子を養い、住宅ローンを抱えていたら。転職市場での自分の価値に自信が持てなかったら。「この歳で今の仕事を辞めても、どうなるかわからない」という恐怖があったら。そうなると「逃げる」という選択肢は、頭にあっても体が動かなくなります。
登場人物たちが前川という圧政から解放されたあとも、この職場にとどまり続けるのは、弱さや甘えではありません。日本の雇用システムが内包する歪みと、個人が負う経済的リスクの重さが、見えない壁となって彼らを縛っているからです。40代の読者の皆さんであれば、この「見えない壁」の感覚を、どこかで体感したことがあるのではないでしょうか。
善良な人間が「悪魔」になるメカニズム
本書が突きつける最も重い問いは、「善意の人間がいかにして加害者に変わるのか」というものです。
前川に虐げられていた同僚たちは、もともと悪人ではありません。普通の会社員として入社し、それぞれ夢や目標を持っていたはずです。しかし、過酷な業務と精神的な圧迫が続く中で、人はどこかで何かが壊れていきます。
本書に対するレビューの中に、こんな言葉があります。「仕事で心が死んでしまった人間が悪魔になってしまう」という指摘です。これは個人の資質の問題ではなく、異常な環境が生み出す組織病理だということです。
管理職として部下のマネジメントに日々悩んでいる方は、ここで立ち止まって考えてみてください。自分の職場に、「心が死にかけている」人はいないか。その原因は、どこにあるのか。本書は、その問いへの答えを直接は教えてくれません。しかし、目を向けることの重要さを、これ以上ないほど鮮やかに見せてくれます。
「地獄のような読書体験」が教えてくれること
本書に寄せられたレビューには、「最初から最後までずっと胸糞悪い」「日常生活に支障をきたすほどの驚異的な小説」「地獄のような読書体験」といった言葉が並んでいます。不快感を前面に押し出したレビューを見て、「それは読みたくないかも」と思う方もいるかもしれません。
しかし、だからこそ読む価値があります。
快適な読書体験だけが読書の価値ではありません。不快感を伴いながらも引きつけられ、読み終えた後に「自分の職場や自分自身のことを、もう少し丁寧に見直してみようか」と思わせてくれる本は、そう多くはないからです。
著者の遠坂八重は、本作でミステリという娯楽のジャンルを使いながら、「人は何のために働くのか」「生きることへの感覚が麻痺していないか」という実存的な問いを読者に投げかけています。そして、その問いは、現代日本の職場で働く私たちすべてに向けられています。
ぜひ、この本を手に取ってみてください。腐ったみかんの描写が、きっとずっと頭から離れなくなります。そしてそれは、あなた自身の職場や日常を見直すきっかけになるはずです。

コメント