40年越しの封印を解く―村上春樹「街とその不確かな壁」が描く、人生の選択と喪失の物語

仕事に追われる日々の中で、ふと過去の選択を振り返ることはありませんか。あの時別の道を選んでいたら、今頃どんな人生を送っていたのだろうか。そんな「もう一つの人生」への思いは、誰の心にも静かに眠っています。村上春樹の6年ぶりの新作長編小説「街とその不確かな壁」は、まさにそんな人生の分岐点と喪失をテーマにした作品です。実はこの作品、著者自身が「失敗作」と語ってきた幻の中編を約40年越しに大幅改稿し、生み出した話題作なのです。

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封印された物語が40年の時を経て甦る

村上春樹にとって「街とその不確かな壁」は特別な意味を持つ作品です。1980年に雑誌「文學界」で発表された中編小説でしたが、仕上がりに不満足だった村上は単行本化せず、のちに書き下ろし長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の中に組み込みました。

この中編は実は、第二作『1973年のピンボール』が芥川賞候補となった際に、受賞第一作を想定して書かれたものでした。受賞はならなかったものの、それでも村上の心には「街」への思いが残り続けていたのです。

そして2020年3月、およそ40年ぶりにあらためてリライトに着手し、約3年を執筆に費やして完成させたのが本作です。長編小説としては『騎士団長殺し』以来約6年ぶり、短編集『一人称単数』からも3年弱ぶりとなる待望の新作となりました。

著者自身が40年もの間、心残りとして抱え続けてきた物語。その重みは、読者にも確実に伝わってきます。

三部構成が織りなす「もう一つの人生」

本書は三部構成となっており、それぞれが異なる時間軸で物語を展開していきます。

第一部は1980年発表の中編「街と、その不確かな壁」をリライトしたもので、十代の「ぼく」が遠距離恋愛中の少女「きみ」との対話から心の中に高い壁と望楼に囲まれた謎めいた街を思い描く場面から始まります。しかし突然「きみ」は消息を絶ち、「私」(かつての「ぼく」)は彼女を失った心の空白を抱えたまま大人になります。

第二部では、その後の物語が展開します。大学卒業後に就職した書籍取次会社を中年で辞めた「私」は、ある朝見た不思議な夢に導かれるようにして縁もゆかりもない福島県の小さな町の図書館長に転職します。

新天地での日々の中で、「私」は図書館でイエローサブマリンのヨットパーカを着た不思議な少年に目を留めます。少年は他人の誕生日の曜日を即座に言い当て、見聞きした風景を細部まで正確に再現できるというサヴァン的能力の持ち主でした。

第三部はふたたび「街」が舞台です。「私」は「街」を出ていかなかったようです。相変わらず図書館に通って「君」と夢読みをしている「私」は、ある時イエローサブマリンのパーカを着た少年を見かけます。

この複雑な筋立ては、過去の作品の構造や要素を単純化して再利用している印象もあり、村上春樹による村上春樹論のような自己言及的な叙述が目立つのも本作の特長です。

旧版との決定的な違い―結末が示すもの

旧中編との大きな違いの一つが結末です。旧中編では主人公とその「影」が街からの脱出を試みて川に飛び込むラストでしたが、本書第一部では主人公「私」だけが街に残り、影のみが川に飛び込む展開に変えられています。

それでも主人公は現実世界に戻ってきてしまう点に謎を残すなど、あえて尻切れトンボのような終わり方を選んでいます。この結末の変更は、村上春樹が40年の時を経て、人生の選択についてどのような境地に至ったかを示唆しているのかもしれません。

40代のビジネスパーソンであれば、多くの選択を重ねてきた人生の中で、取り返しのつかない選択の重みを理解しているはずです。本作が描く「街に残る」という選択は、現実逃避ではなく、一つの覚悟の形として読み取ることもできます。

「街」と「町」が象徴する二つの世界

本作の特徴は、現実世界の「町」と幻想世界の「街」という二つの舞台を行き来しながら物語が進むことです。高い壁に囲まれた謎めいた「街」は、ファンタジーでありながら、同時に主人公の心の投影でもあります。

「街」では時間が緩やかに流れ、現実世界の煩わしさから解放された静謐な空間が広がります。一方、福島県の小さな「町」は、図書館という文化の拠点を通じて、人と人との緩やかなつながりが描かれます。

この対比は、私たちの人生における「理想」と「現実」の関係を示しているようです。完全に理想の世界に逃避することもできず、かといって現実だけに埋没することもできない。その狭間で揺れ動く心の動きが、本作の核心にあるのです。

リライトという行為が持つ意味

村上春樹がなぜ40年前の作品をリライトしたのか。その答えは、単に物語を完成させたかったからだけではないでしょう。

40年前の村上と現在の村上は、同じ「街」を見ていても、その意味するところは大きく異なっているはずです。若き日には「失敗作」と感じた物語が、人生経験を重ねた今だからこそ、新たな深みを持って語り直すことができる。そんな作家としての円熟が、この作品には溢れています。

私たちも日々の仕事の中で、過去のプロジェクトを振り返り、当時は理解できなかった意味が今になって見えてくることがあります。リライトという行為は、自分自身の人生を見つめ直す作業でもあるのです。

喪失と再生を描く村上文学の集大成

本書は「失われたもの」を取り戻すことはできないという厳しい現実を描きつつも、それでもなお前に進もうとする人間の姿を描いています。

中年になった主人公が図書館長として新しい土地で人生を再構築していく第二部は、喪失からの再生の物語とも読めます。完全に過去を清算することはできないけれど、新しい場所で新しい関係性を築いていくことはできる。そこに希望の光が差し込んでいます。

40代のビジネスパーソンにとって、この主人公の選択は他人事ではありません。中間管理職として、会社への貢献と自分らしい生き方の間で葛藤する日々の中で、本作が示す「もう一つの道」への可能性は、静かな勇気を与えてくれるはずです。

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