「コスト削減」「生産性向上」「もっと数字を上げろ」。上から降りてくる指示はいつも同じで、現場がどういう状態にあるかをきちんと見た上での言葉には聞こえない。あなた自身が管理職になった今、もしかしたら同じことをしていないか、ふと不安になることはないでしょうか。
橋本治さんの著書『上司は思いつきでものを言う』は、組織の迷走がなぜ止まらないのかを歴史的・思想的に解き明かした一冊ですが、単なる批判書では終わりません。著者は最後に、処方箋を示してくれます。それが「現場主義の復権」です。欧米型の成果主義をそのまま真似することでも、精神論に戻ることでもない、日本の職場が本来持っていた強みを取り戻す道です。
「やせた現場」という言葉が刺さる理由
橋本治さんは本書の中で、今の日本の職場を「やせた現場」と表現しています。現場が活気を失い、上層部だけで物事が決まり、実際に仕事をしている人たちの声が意思決定に届かなくなっている状態のことです。
この言葉を読んだとき、心当たりがある方は少なくないはずです。システム開発の現場では、要件を決める会議に現場のエンジニアが呼ばれないことがあります。営業チームの改善策を、営業経験のない管理職が数字だけを見て決めることがあります。あるいは、在宅勤務が増えてからチームの雰囲気がどう変わったか、肌感覚で把握できていない自分に気づくこともあるかもしれません。
これが「やせた現場」です。情報が遮断され、判断が上にある人間の想像の中だけで行われる。そしてその判断が思いつきに見えるのは、実は現場から切り離されているからだと著者は指摘します。
欧米型の成果主義では解決しない
こうした組織の硬直化に対して、日本企業が取り組んできた典型的な処方箋があります。成果主義の導入、フラットな組織への移行、360度評価、目標管理制度……いずれも欧米の経営手法を取り入れたものです。
しかし橋本治さんは、これらを「外来のOSをそのまま移植する試み」として懐疑的に見ています。なぜなら、日本の職場の深層には儒教的な秩序感覚が根を張っており、その上に欧米型の制度だけを載せても、本質的な変化は起きにくいからです。制度が変わっても、会議の空気は変わらない。評価基準が変わっても、部下への接し方は変わらない。多くの企業が経験してきた「制度改革の空振り」は、ここに原因があります。
では何が必要なのか。著者が提唱するのは、制度の変更ではなく「現場との接続を取り戻す」という、よりシンプルな行動です。
上司に必要なのは「現場を歩く」という基本動作
著者の処方箋は具体的です。上司は現場へ出向き、自分の目と耳で状況を把握する。デスクから数字を見て指示を出すのではなく、現場に向かって、どうすればこの仕事がもう少しやりやすくなるか、何が邪魔をしているかを問いかけることです。
これは一見、当たり前のことに聞こえます。しかし「やせた現場」が広がっているということは、この当たり前ができていない管理職が非常に多いということでもあります。会議室とリモートの画面越しだけで部下の状況を把握しようとしている管理職は、実は現場から相当離れた場所に立っているのです。
IT企業の管理職であれば、部下のエンジニアが実際にどんな作業の流れで仕事をしているかを、最後に自分の目で確認したのはいつでしょうか。どのタスクに時間がかかっているか、どこで詰まっているか、チームの誰と誰の間に微妙な距離感があるか。数字のレポートからは見えてこない情報が、現場には必ずあります。
部下に必要なのは「現場の声を届ける」責任感
現場主義の復権は、上司だけの課題ではありません。著者は部下の側にも役割があると言います。
それは、上司の機嫌を損ねることを恐れて都合の良い情報だけを上げるのをやめ、現場の真実を届けるという強い責任感を持つことです。ネガティブな情報こそが、組織が判断を誤らないために必要なのだと著者は強調します。
もちろん、これは簡単ではありません。都合の悪い情報を上げれば、雰囲気が悪くなることもあります。しかし「報告を上げた人間が損をする」空気が続くかぎり、現場の声は永遠に届きません。上司と部下が双方向で情報を動かす関係を作ること。それが「やせた現場」を豊かにする唯一の道なのです。
家庭での対話にも通じる、この考え方
興味深いことに、著者のこの処方箋は職場の外にも応用できます。
在宅勤務が増えて家族と過ごす時間が増えたはずなのに、なぜか家庭の中の空気が重くなっている、会話がかみ合わないと感じている方もいるかもしれません。それはもしかすると、家庭にも「やせた現場」が生まれているからかもしれません。同じ空間にいながら、お互いの日常の実感が届き合っていない状態です。
上司が現場を歩くように、家庭でも相手の日常に近づく問いかけが必要です。「最近どう」という漠然とした質問ではなく、「今週一番大変だったことは何だった」という具体的な関心の向け方が、相手の声を引き出します。双方向のコミュニケーションを取り戻すという処方箋は、職場でも家庭でも変わりません。
「現場主義」こそが、思いつきの連鎖を断ち切る
本書を読み終えると、上司の思いつき発言が単なる個人の欠点ではないことがよく分かります。それは現場から切り離されたことによって起きる、必然の現象なのです。
逆に言えば、現場との接続を取り戻した管理職の発言は、自然と現実に根ざしたものになります。無意味な迷走が減り、部下に伝わる言葉の質が変わります。思いつきではなく、現場から生まれた言葉で動くチームは、信頼でつながった強さを持ちます。
橋本治さんの処方箋はシンプルですが、実践し続けることは簡単ではありません。だからこそ、この本を手元に置いて繰り返し読む価値があります。ぜひ一度、手に取ってみてください。

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