「自分でちゃんと選んでいるはずなのに、どこか腑に落ちない」――そう感じることはないでしょうか。部下の動かし方、プレゼンの組み立て方、会議での振る舞い。こうすれば正解、ああすれば失敗と、まるであらかじめ答えが決まっているようなゲームを、毎日プレイさせられている気がする、あの感覚です。
家庭でも同じことが起きています。「こういう夫であるべき」「こういう父親であるべき」という、誰が決めたのかわからない基準が、生活のあちこちに潜んでいる。それに逆らうと罰則があるわけではないのに、気づくと従っている。
芥川賞受賞作、安堂ホセ『DTOPIA(デートピア)』は、その「なぜか従ってしまう構造」の正体を、恋愛リアリティショーという現代的なエンターテインメントの形式を借りて、鮮やかに解剖してみせた小説です。本書を読むことで、私たちが「自由だ」と思い込んでいる選択の多くが、実はどれほど精巧に設計されたシステムの上に成り立っているかが、じわりと見えてきます。
南の島のリゾートで繰り広げられる「仕組まれた恋愛」
物語の舞台は、南太平洋のボラ・ボラ島に設定された富裕層向けの仮想リゾートです。そこでは「DTOPIA」と名付けられた恋愛ゲームイベントが開催されており、「Mr. LA」「Mr. ロンドン」といった都市名を冠された10人の男たちが、ミス・ユニバースをめぐって争いを繰り広げています。
この設定を、単なる奇抜なフィクションとして読み流してはいけません。参加者の名前から個人名を奪い、都市名という記号に置き換えてしまうこの仕掛けは、「人間を消費可能なコンテンツへと変換する」という現代社会のメカニズムを、そのまま舞台装置に組み込んでいます。
出演者たちは「自分の感情で動いているように見えながら」、実際にはプロデューサーの演出、視聴者の期待、アルゴリズムによって導かれた「リアル」を演じているだけです。ショーを見守る側も、見られる側も、全員がシステムの中に組み込まれている――それが「DTOPIA」という空間の本質です。
「南の島」という設定が持つ、告発としての意味
ボラ・ボラ島という舞台の選択は、美しい風景の演出のためではありません。南太平洋の島々は、植民地支配の歴史的現場であり、冷戦期には核実験が繰り返された場所でもあります。西欧諸国がその土地を一方的に「楽園」として消費してきた歴史が、この島には刻み込まれています。
そこに今度は仮想リゾートという形で再びやってきた富裕層が、人種もジェンダーも記号に変換したショーを開催して消費を続ける。著者はこの構図に見ているのは、現代のグローバル資本主義が持つ搾取の論理です。
過去の暴力はもう終わったという顔をしながら、形を変えて繰り返される支配のパターン。本作の設定は、そのアイロニーを一枚の絵として差し出しています。
私たちは国際企業のサービスを利用し、海外旅行を楽しみ、グローバルな文化を消費します。その日常のどこかに、かつての植民地の論理が静かに続いているとしたら、どうでしょうか。本作はその問いを、リゾートの陽光の下に埋め込んでいます。
「仕組まれてない命なんてない」――この言葉の射程
本作の中で、「仕組まれてない命なんてないのかも」という台詞が語られます。この一言が、物語全体を貫くテーマの核心です。
恋愛リアリティショーの参加者は、「自分の意志で感情を表現している」と信じています。しかし視聴者から見れば、すべては演出の中にあります。プロデューサーが望む展開、視聴率を稼ぐための対立、感動を呼ぶための和解――参加者の「自由な行動」は、気づかないうちにそのシナリオをなぞっているのです。
これは恋愛ショーだけの話ではありません。私たちが「自分で決めた」と思っている職業選択も、パートナーの選び方も、子どもへの接し方も、どこまでが「自分の意志」で、どこからが「社会から与えられた選択肢の中での動き」なのか、明確に区別できるでしょうか。生まれた時代、育った家庭、属する組織――それらすべてが、私たちの「選択」の枠を静かに規定しています。
「正しい夫」「できる上司」というシナリオの正体
ペルソナとしての読者、つまり40代のIT中間管理職の男性にとって、この問いは他人事ではないはずです。
「信頼される上司」はどんな行動をとるべきか。「良い父親」とはどういう姿か。これらのイメージは、いったいどこから来ているのでしょうか。ビジネス書、職場の慣習、社会の空気――それらが無数のシナリオを用意しており、私たちはその中から「自由に選んでいる」ように見えて、実は用意された役割を演じています。
部下との関係がうまくいかないとき、「自分のコミュニケーションに問題がある」と感じるのは当然です。しかし同時に、「上司はこうあるべき」「部下はこう動くべき」という、誰も明文化していないシナリオが職場全体に張り巡らされていることも、問題の一部です。あなたが演じようとしている役割は、誰が書いた脚本なのか。本作はその問いを静かに突きつけます。
見えない脚本を知ることが、最初の一歩になる
著者は、このシステムからの「脱出」を説いているわけではありません。完全に自由になれるとは、おそらく誰も思っていないからです。仕組まれた構造の中にいながら、どう動くかを考えること――それが本作の提示する、現実的な問いの立て方です。
批評家の萩野篤人氏は本作について、「構造悪への批判と同時に、物語が計算を超えてはみ出す力」を指摘しています。つまり、どれほど批評的に設計されたテクストであっても、人間の書いた物語は、気づかないところで生身の感情を宿らせてしまう。構造を知り抜いた著者自身も、その構造の外に完全には立てない――そのアイロニーすら、本作は内包しています。
私たちが職場や家庭で感じる「なんとなくうまくいかない」という感覚の多くは、個人の能力や努力だけで説明できるものではないかもしれません。
見えないシナリオの存在に気づくことが出発点になります。
自分を責める重さが少し軽くなり、どこを変えれば状況が変わるかを冷静に考える余地が生まれます。
「エンターテインメント」という装置の二重性
本作がもう一つ鋭く照射しているのは、エンターテインメントそのものが持つ「管理装置としての機能」です。
恋愛リアリティショーを視聴する私たちは、「楽しんでいる」と思っています。しかし同時に、「恋愛とはこういうもの」「魅力的な人間とはこういうもの」「感動的な展開とはこういうもの」という価値観を、じわりと植えつけられています。エンターテインメントは人を管理するのではなく、人が自発的に特定の価値観を内面化するよう、巧みに設計されているのです。
これは悪意の話ではありません。制作側も視聴者も、気づかないまま同じゲームを続けているだけです。しかし、ゲームの存在に気づいた人間には、プレイの仕方を変える選択肢が生まれます。本作を読むことは、そのゲームを少し離れた視点から眺めるための、静かな訓練になります。
「仕組まれた世界」で、どう自分らしくあるか
安堂ホセが『DTOPIA』で提示しているのは、絶望ではありません。「仕組まれていない命などない」という現実を直視した上で、それでも自分がどこに立つかを選んでいくための覚悟と眼差しです。
人種、ジェンダー、植民地主義といった巨大な歴史的構造は、一個人が今日明日にどうにかできるものではありません。しかし、その構造を「見える化」し、自分がどのように組み込まれているかを知ること――その一歩が、思考の自由を取り戻す起点になります。
職場でも家庭でも、完璧に自由な選択などというものは存在しません。それでも、制約を知った上での選択と、制約に気づかないままの選択とでは、同じ行動でもまったく異なる意味を持ちます。あなたが今日部下に伝えた言葉、家族に向けた姿勢――それらが「誰かの書いた脚本」であることに気づいたとき、初めてその脚本を少しだけ書き直す余地が生まれるのです。

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