「このポジション、自分には向いていないのかもしれない……」
昇進した直後にそんなことを思ったことは、ありませんか?
部下との距離感をどう取ればいいのか、会議での発言をどう組み立てればいいのか、何もかもが手探りで、毎朝電車に乗るたびに微妙な重さを感じる――。そんな状況のとき、ふと手にした1冊の歴史小説が、妙に響いたのです。
嶋津輝の『カフェーの帰り道』。2026年1月に発表された第174回直木賞を、選考委員のほぼ満票という圧倒的な評価で受賞した話題作です。舞台は大正から昭和初期の東京・上野。カフェーで働く女性たちの群像劇で、一見すると「自分とは関係のない世界の話」に見えます。
ところが、読み始めて気づいたのです。これは100年前の女給たちの話であると同時に、「今の自分の話」だと。
この記事では、本作の核心にあるテーマに迫ります。
一時的な空間が、人を育てる。
その視点から、現代を生きるビジネスパーソン――とりわけ、今まさに「ここが居場所なのか?」と悩んでいるあなたに向けて、この小説の魅力をお伝えしたいと思います。
1. 「あまり流行っていない」カフェーが舞台である理由
本作の舞台「カフェー西行」は、銀座の華やかなカフェーではありません。上野の片隅にひっそりとたたずむ、近所の住民が食事や一休みにやってくる、ちょっと垢抜けない店です。
なぜ著者の嶋津輝は、あえてそんな「あまり流行っていない」場所を選んだのでしょうか。
それは、完璧すぎる舞台には、はみ出した人間が入る隙間がないからだと思います。洗練された最先端の場所は、すでに「正解」が決まっています。そこでは、規格外の人間は排除される。けれど、西行のような少し緩やかな空間には、社会の規範からちょっとはみ出した人間でも、なんとなく居場所が生まれる。
作中に登場する女給の一人、タイ子は竹久夢二風の独特な化粧を施し、独自のスタイルを貫きます。小説家を志すセイは、焦燥感を抱えながらもカフェーで働き続けます。彼女たちが西行に集まれたのは、その場所が「完璧じゃなかった」からこそなのです。
これを読んで、私はふと職場のことを考えました。あなたが今いる職場も、もしかしたら「完璧じゃない場所」かもしれません。でも、だからこそあなたが育つ余地があるのではないでしょうか。
2. 彼女たちは「去っていく」――通過点としての空間
本作の構造で最も印象的なのは、女給たちが最終的に「カフェー西行を去っていく」という点です。
彼女たちは西行に骨を埋めるわけではありません。ある者は自分の夢の方へ歩き出し、ある者は新しい人生のステージへと踏み出す。カフェーは終着点ではなく、出発点なのです。
これを私は「孵卵器」と表現したいと思います。卵が孵るためには、適切な温度と時間が必要です。ひなは卵の中に永遠に留まることはできない。やがて殻を破って外に出ていく。カフェー西行は、まさにそういう場所として描かれています。
ここで重要なのは、彼女たちが西行を去るとき、それは「失敗」でも「逃亡」でもないという点です。むしろ逆で、その場所で自分のアイデンティティをじっくりと醸成したからこそ、次の一歩が踏み出せた。焦りながらも小説を書き続けたセイは、カフェーでの日々があったからこそ、作家への道を歩み始めることができた。
あなたが今いるポジションも、もしかしたら「終着点」ではなく「孵卵器」なのかもしれません。うまくいかない毎日も、手探りの試行錯誤も、全部が次のステージへの助走になっている――そう思うと、少し気持ちが楽になりませんか。
3. 56歳で直木賞――著者の人生が証明する「遅い助走」の価値
嶋津輝という作家の経歴は、本作のテーマをそのまま体現しています。
彼女は投資会社に勤務するサラリーパーソンでした。リーマン・ショックを機に41歳で小説教室の門を叩き、50代になってようやく本格的な作家活動を始めた、いわゆる「遅咲き」の作家です。そして56歳のとき、直木賞という文学界最高峰の一つを、満場一致という圧倒的な評価で受賞しました。
40代で自分のキャリアを疑い、新しい道を探し始めた著者が、その葛藤を経て生み出した作品だからこそ、本作の「一時的な空間で自分を育て、やがて旅立つ」というテーマは、深い説得力を持っています。
遅くはない。今がまさに助走の時間なのだ、という静かなメッセージが、この本のページの随所から伝わってきます。
選考委員として会見に臨んだ作家の宮部みゆきは、本作を「読んでいる人を幸せな気持ちにさせてくれる」と絶賛しました。私も全く同感です。重苦しい時代を背景にしながらも、読み終えたあとに「よし、また明日もやってみよう」という気持ちが自然とわいてくる。そんな一冊です。
4. 職場という「仮の宿」――ビジネスパーソンへの問いかけ
さて、少し視点を変えてみましょう。
あなたは今の職場を、どんな場所だと思っていますか?
「自分には合わない」「もっといい環境があるはずだ」「この会社にいても成長できない」……そう感じている方も、少なくないでしょう。でも、カフェー西行の女給たちが教えてくれることは、今いる場所の意味は、その場所を離れたときに初めてわかる、ということです。
彼女たちは西行を「腰掛け」にしていたわけではありません。そこにいる間は、精一杯働き、笑い、悩み、ぶつかり合いました。その真剣な日々の積み重ねが、次の人生への力になっていった。
管理職になったばかりで戸惑っているなら、その戸惑いそのものが財産です。部下との関係が難しいと感じているなら、その難しさに向き合い続けることが、あなたを育てています。今いる場所は、あなたにとっての「カフェー西行」かもしれない。完璧ではないかもしれないけれど、だからこそ、あなたが本当の自分を見つけるための大切な空間なのです。
5. 「百年前のわたしたちの物語」が今の自分に刺さる理由
本作のキャッチコピーは「百年前のわたしたちの物語」です。
大正・昭和初期を生きた女給たちの悩みは、形を変えて現代の私たちと共鳴しています。キャリアへの不安、自己実現の葛藤、人間関係の複雑さ、経済的な自立への模索――100年という時間が経っても、人間が抱える本質的な問いは、驚くほど変わっていません。
そして本作は、そんな普遍的な問いに対して、重苦しいメッセージではなく、温かなユーモアと人間への深い愛情をもって答えを示してくれます。女給たちの日常のやりとりは軽やかで、読んでいてクスッと笑えるシーンも多い。それでいて、読み終えたあとには確かな余韻が残る。
硬派なビジネス書ばかり手にとってきた方にこそ、ぜひ一度手に取ってほしい一冊です。物語の中に、どんな自己啓発本にも書かれていない「人生の本質」が、さりげなく、しかし力強く描かれています。
今いる場所が、あなたを育てている
『カフェーの帰り道』が伝えてくれるのは、シンプルでいて深いメッセージです。
今いる場所は、ゴールではない。それは次へと踏み出すための、大切な助走の時間なのだ、と。
41歳でゼロから小説を書き始めた著者が、56歳で直木賞を受賞した。その事実そのものが、この物語の最も力強いエピローグです。遅すぎることも、合わない場所にいることも、焦っていることも、全部がいつか「あの時間があったから」と振り返る日が来る。
管理職として悩み、仕事と家庭の間でくたびれているあなたに、この一冊を贈りたいと思います。きっと読み終えたとき、明日の朝がほんの少し、軽くなっているはずです。

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