人の視線が怖くて、ゆで卵さえ割れなかった―生湯葉シホが綴る、繊細さと対人不安の記録

あなたは静かな喫茶店で、周りの目を気にして食事が喉を通らなくなったことはありませんか。人前で何かを食べるとき、音を立てないように、視線を集めないようにと、過度に気を張ってしまう。そんな経験をお持ちの方に、ぜひ手に取っていただきたいエッセイ集があります。フリーライター生湯葉シホさんの初の単著『音を立ててゆで卵を割れなかった』です。幼少期から20代にかけて抱えてきた強い不安感や対人緊張を、食べられなかったものの記憶とともに振り返るこの本は、繊細な心を持つ人々に深く寄り添う一冊となっています。

音を立ててゆで卵を割れなかった
様々なウェブ媒体を中心にライティング、取材で実績のある生湯葉シホさん。幼少期から20代までにかけて不安でたまらなかった自己の内面を「食べられなかったもの」の記憶とともにふり返る、初の単著となるエッセイ集。繊細な心の機微を捉え、共感を呼ぶ30...

音を立てることへの恐怖が教えてくれたこと

本書のタイトルにもなっている表題作は、著者の繊細な気質を象徴するエピソードです。静まり返った喫茶店でモーニングセットを注文すると、エッグスタンドに立てられたゆで卵が運ばれてきました。周囲の人々は新聞を読んだり、静かに各々の時間を過ごしています。そんな空間で、生湯葉さんはゆで卵に手を伸ばそうとした瞬間、ある不安に襲われます。

殻が割れる音が店内に響いて、誰かがこちらを見たらどうしよう。その恐怖が膨らみ、結局5分から10分も悩み続けた挙句、ゆで卵を食べられないまま残してしまったのです。手のひらで卵をくるみ、ティースプーンの先を殻の表面に当ててみては、音が鳴ることを想像して動悸が激しくなる。跳び箱を跳ぶ勇気が出ずに短い助走を何度もやり直す人のように、手頃そうな角を見つけては数センチのところまでゆで卵を近づけてみて、結局割れずにエッグスタンドに戻す。そんなことを繰り返していたといいます。

このエピソードには、人から視線を向けられることへの恐怖が端的に表れています。周囲のリアクションが気になって仕方ないという著者の繊細な気質が、たった一個のゆで卵を前にした状況から伝わってきます。

対人不安という見えない重荷

生湯葉さんは、10代後半から20代の間、一日たりとも緊張しない日はないほどだったと告白しています。満員電車でも映画館の暗闇でも、レストランで食事をしているときも、学校で出席確認のために名前を呼ばれるときも、同じように緊張して手足がぶるぶる震えていました。音楽を聴くためにイヤホンをすると自分の呼吸音がふだんよりも大きく響き、慌ててイヤホンを耳から外して自分の吐く息がうるさくないか確認することもあったそうです。

見られることが怖くてたまらなかったから、誰にも見られていないことをたしかめようと、人をよく見ていた。誰かとしゃべったり人前に立ったりしていないとき、ほとんどの人は無防備だった。美容室で髪が染まるのを待っているような感覚がありました。そういうマナー、ルール、気配りが如実に現れる場所なのかなと思っています、と生湯葉さんは振り返ります。

こうした対人不安は、コミュニケーション全般にも及んでいました。10代後半から20代の頃の自分は、人と話す時に正解を探しに行ってしまうところがあって、そういう八方美人さとどう折り合いをつけるかを綴ったエッセイもあるといいます。若い人特有の考えすぎちゃう感じや、コミュニケーションで悩んできた感じが面白かったと、編集者も評価したほどです。

人前で食事をするということ

本書の特徴的な切り口は、対人不安や生きづらさを「食べられなかったもの」という視点から描いている点です。生湯葉さんにとって、人前での食事は常に緊張を伴うものでした。友達など仲良い人と外食すると聞くと、まず気が進まないなぁという気持ちが最初に出てきます。自分は周りのリアクションが気になるタイプで、人前でリラックスして食事ができませんでした。自分の中では、食事や外食はしんどかったなという気持ちがあります、と語っています。

表題作のゆで卵以外にも、親戚の葬儀後の食事会でうどんが喉を通らなかった話や、修学旅行の夕食で出たカニを前に戸惑った思い出など、日常の食卓で生じた何気ない出来事に著者の抱える生きづらさが反映されています。葬儀後にみんなでお蕎麦屋さんに行って、葬儀の疲れを癒しつつ、故人を偲ぶような食事会が開かれたとき、子どもの自分にとっては新鮮な経験でしたが、緊張のあまり食べられなかった記憶が残っています。

このように、本書のエッセイ群は一見すると食エッセイのようでありながら、実際には著者自身の半生を投影した私的な記録であり、フードエッセイの顔をした半自伝とも評されています。

嘘のない記憶を紡ぐということ

生湯葉さんのエッセイで印象的なのは、記憶を美化せず、そのままの自分を書いているという点です。たとえば18歳で初めてカップヌードルを食べたときの回想では、人生で初めてのカップ麺という劇的な出来事でありながら、味は全然覚えていないというのが正直なところでした。そこで無理に美化せず、味を覚えていない自分をそのまま書いたといいます。

嘘がないようにと思っていますが、エッセイが何から何まで本当である必要は、必ずしもないと思っています。細かい時系列やできごとの繋げ方は、けっこう脚色をしているんです。だけど、そのエッセイのきっかけになった部分、今作で言うと食べられなかった理由になっている感情は嘘がないようにしています、と生湯葉さんは語ります。

こうした姿勢により、本書のエッセイはどれも著者の本音に裏打ちされたリアリティが感じられます。読者からは、自分のことのように感じすぎて胸が苦しくなったという声や、繊細すぎるがゆえの苦悩に痛いほど共感したといった感想も聞かれ、傷つきやすい気質に悩んだ経験のある人には特に強く響く内容となっています。

弱みを知ることは自分を知ること

著者が自分を気弱で常に周りをおろおろと窺っている、けれど執念深いと自己分析していることも興味深い点です。自分の弱みや限界を正直に認めることは、時に勇気のいることです。しかし、その謙虚さが他者から学ぶ姿勢を育み、また自分らしい生き方を見つける鍵にもなります。

繊細さんという言葉があるように、自分は人の目を気にしすぎているのかと悩んだことがある読者はいるはずです。読み手の気持ちと記憶を受容できる内容です、と出版社も評しています。本書を読むことで、同じような悩みを抱えてきた人は、まるで他人には言えなかった秘密をこっそり教えてもらい、それを見守ったような気持ちになるといった声もあり、読む人の心にそっと寄り添う温かなエッセイ集となっています。

今を生きる繊細な人たちへ

全30篇のエッセイには、繊細な心の機微と苦悩がリアルに綴られ、同時に共感や感動を呼ぶエピソードが詰まっています。Web媒体などで多くのエッセイやインタビュー記事を執筆するライターの生湯葉シホさんの初の著書として、自身を気弱で常にまわりをおろおろと窺っている、けれど執念深いと形容する生湯葉さんが、個人的な記憶と食べ物を絡めた30篇のエッセイに仕立てています。

当時の状況と心の動きを読み手に想像させる鋭い観察眼を持ち、篇ごとのテーマに沿って文体を作るのは連載や取材で鍛えた筆致力があるからこそです。新鋭のライターとして注目を集める生湯葉シホさんが、自身がこれまで食べられなかったものを振り返って綴った本書は、自身の内面を率直に表現する筆致が光っています。

もしあなたが、周囲の目を気にしすぎてしまう自分に悩んでいるなら、あるいは繊細な心を持つ誰かの気持ちを理解したいと思うなら、この本はきっと心に寄り添ってくれるはずです。ゆで卵を割る音さえ恐れた少女が、今ではライターとして自分の物語を紡いでいる。その軌跡には、繊細さを抱えながらも前に進む勇気が詰まっています。

音を立ててゆで卵を割れなかった
様々なウェブ媒体を中心にライティング、取材で実績のある生湯葉シホさん。幼少期から20代までにかけて不安でたまらなかった自己の内面を「食べられなかったもの」の記憶とともにふり返る、初の単著となるエッセイ集。繊細な心の機微を捉え、共感を呼ぶ30...

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