観光地の混雑にうんざりしたこと、ありませんか?人気の観光地はどこも人であふれ、地元の人たちの生活にまで影響が出ている。そんなオーバーツーリズムの問題を目にしてきた私たちにとって、コロナ禍で訪日観光客がゼロになった期間は、観光のあり方を見直す絶好の機会となりました。宗田好史氏の『インバウンド再生: コロナ後への観光政策をイタリアと京都から考える』は、単なる観光客数の回復ではなく、地域と観光客の双方が幸せになれる持続可能な観光のあり方を提示した一冊です。観光に関心のある方だけでなく、地域の未来を考えるすべての方に読んでいただきたい内容となっています。
再び「量」を求めてはならない
本書の核心的なメッセージは明確です。インバウンドは必ず回復する、しかし再び量を求めてはならない。著者の宗田氏は、コロナ前の日本各地、特に京都で起きていた観光公害の実態を詳しく分析しています。
コロナ前の京都は、急増する外国人観光客で賑わっていました。飲食業や宿泊業の売上は伸び、一見すると経済的には成功していたように見えます。ところが実際には、地域住民の生活に大きな支障が出ていたのです。バスは観光客で満員となり地元の人が乗れない、静かな住宅街に民泊施設が次々と開業し騒音問題が発生する、地価が高騰して若い人が京都に住めなくなる。こうした問題が深刻化していました。
宗田氏は、このような薄利多売の観光は地元に真の利益をもたらさないと指摘します。大量の観光客を安く受け入れても、インフラへの負担が増え、住民の生活環境が悪化するだけ。むしろ必要なのは、厚利少売、つまり高付加価値で少人数を受け入れる観光への転換です。
量から質への転換とは、単に客単価を上げることではありません。地域を尊重する観光客を増やし、一方で観光客の期待に応える町並みと産業を育てることが大切なのです。これこそがコロナ後に目指すべき観光政策の方向性だと、宗田氏は強く訴えています。
イタリアの経験から学ぶ観光の成熟
本書の大きな特徴は、イタリアの観光発展史を詳細に分析している点です。宗田氏は長年イタリアの都市・農村計画を研究してきた専門家であり、その知見が随所に活かされています。
イタリアの観光客層の変遷は興味深い示唆に富んでいます。第1段階は19世紀後半から戦後にかけての英国富裕層と米国人、第2段階はバブル期の日本人、第3段階はベルリンの壁崩壊後の東欧の新旅行者、そして第4段階が2000年代以降の東アジア勢です。
それぞれの段階で、イタリアは異なる課題に直面してきました。第1段階では大量の米国人観光客を受け入れるため都市部にホテル建設ラッシュが起こり、その副作用で家賃高騰や住民流出を招きました。日本のバブル期には、異文化を持つ東洋人への対応に戸惑いながらも、購買力のある日本人客が老舗ブランドを世界的企業に成長させる一助となりました。
そして第4段階の東アジア観光客の急増により、ヴェネツィアなどで住民不在の状態が問題視されるようになったのです。大混雑や住民不在などの観光公害が深刻化した現在、イタリアでは観光公害解消のため様々な施策を実施しています。パークアンドライドや予約制の導入、ツアー観光客を郊外のアウトレットモールに誘導するなど混雑解消に取り組むとともに、魅力ある地方都市へ観光客を分散させる政策も進めています。
本書ではこれらの具体例が豊富に紹介されており、日本が学ぶべき教訓が数多く示されています。観光先進国イタリアの試行錯誤の歴史は、日本が同じ失敗を繰り返さないための貴重な参考資料となるのです。
京都の観光史から見える日本の課題
イタリアと並んで本書で詳しく分析されているのが京都です。京都は日本を代表する観光都市であり、同時にオーバーツーリズムの問題が顕在化した都市でもあります。
戦後から現在に至る京都の観光の盛衰を辿ると、日本の観光政策の変遷が見えてきます。高度経済成長期には修学旅行や団体旅行の受け入れで発展し、バブル崩壊後は一時停滞しましたが、2000年代以降のインバウンド政策により再び活況を呈しました。
しかしその結果が、先述したような観光公害でした。空き家は簡易宿所に次々と変わっていき、観光客のマナーや混雑が問題視され、地価が上がって京都に住みたい若い人には手が届かなくなってしまったのです。
宗田氏は、コロナ禍で抑制できていなかった観光客が減った今こそ再生のチャンスだと主張します。適正な規模のインバウンドを受け入れ、経済的利益を得るためだけの外資や東京資本ではなく地元企業を大事にすること。生活や文化の魅力を発信し、他者との交流によってさらにその魅力を深めていくこと。これらが大事だと説いています。
京都の事例は、観光による経済効果だけを追い求めた結果、地域社会が疲弊していく過程をリアルに示しています。そしてそれは京都だけの問題ではなく、日本全国の観光地が直面しうる課題なのです。
観光の本質は文化交流である
本書で繰り返し強調されるのが、観光の本質は異文化交流であるという視点です。宗田氏は次のように述べています。
経済回復だけにとらわれず、観光は異文化との交流を通じて、多様な文化を受け容れながらわれわれ自身も変わっていきながら、お互いの文化を発展させるものである。このような観光の姿をインバウンドに求めたい。
この視点は、私たち日本人が海外旅行を楽しみ、留学で何を学んできたか、何を手に入れてきたかを思い出せば理解できるはずです。今、われわれは迎える立場になりました。日本を見たい人、知りたい人、愛する人、憧れる人を拒んでいいのか。問題のマナーも実は急速によくなっていました。
この指摘は本質を突いています。観光を単なる経済活動として捉えるのではなく、文化交流として位置づけることで、観光の意味と価値が大きく変わってくるのです。
日本のグローバル化は海外に出かけ買い物をすることだった時代もありました。ネット時代になってもパソコンから世界を覗くだけでした。でも今は違います。隣の部屋に外国人がいます。今注目いたばかりの旅行者が出発地の匂いと生活習慣を持ち込んでくる。モノではなくヒト、大勢の外国人が最初は観光、次は留学者そしてともに暮らす時代になりました。
未来の地域社会では、彼らの文化を受け容れてわれわれ自身が変わっていきます。身近な場所での異文化交流が日本を発展させる時代を迎えそうです。
数値目標から満足度指標へ
本書の第8章では、量を制御し質を高め地域を潤す八つの戦略が提示されています。これらの戦略の根底にあるのは、観光客数の数値目標ではなく、地域社会と観光客双方の満足度を高める指標へと政策の軸足を移すべきだという考え方です。
従来の観光政策は、訪日外国人観光客数〇千万人という数値目標を掲げ、その達成を目指すものでした。しかしこのアプローチでは、量は増えても質が伴わず、結果として地域住民と観光客の双方が不幸になる事態を招いてしまいました。
宗田氏が提案する新しい指標は、例えば観光客の満足度、リピート率、地域住民の幸福度、文化財の保全状況などです。これらの指標を重視することで、持続可能な観光が実現できるというわけです。
また本書では、観光客の総量規制や予約制の導入、パークアンドライドによる都心部の混雑緩和、宿泊施設や商業施設の適正配置など、具体的な政策提案も豊富に示されています。これらは既にイタリアや一部の日本の観光地で実施されており、一定の成果を上げている施策です。
量から質への転換は、一朝一夕には実現できません。しかし、コロナ禍という大きな転換期を経た今こそ、新しい観光のあり方を模索し実現していく絶好の機会なのです。
地域と観光客の共生を目指して
本書を読んで強く印象に残るのは、地域住民と観光客の共生という視点です。従来の観光政策では、観光客の利便性や経済効果ばかりが重視され、地域住民の視点が軽視されがちでした。
しかし持続可能な観光を実現するには、地域住民が観光を前向きに受け入れ、観光客を歓迎する気持ちを持つことが不可欠です。そのためには、観光によって地域住民の生活が豊かになり、文化が守られ、未来への希望が持てることが必要です。
宗田氏は、過度な外資や中央資本に頼らず地元企業を大切にすること、観光客にも地域にも利益をもたらす産業育成の重要性を説いています。これは単なる理想論ではなく、イタリアの成功例からも実証されている実践的な方策なのです。
また、観光を通じて地域の文化や歴史への理解が深まり、地元の人々が自分たちの地域に誇りを持つようになることも重要です。観光は外から来る人だけでなく、地域に住む人々にとっても意味のあるものでなければなりません。
『インバウンド再生』は、単にコロナ後の観光回復策を論じた本ではありません。これからの日本社会が目指すべき地域のあり方、文化との向き合い方、そして異文化との共生のあり方を示した、包括的な提言書と言えるでしょう。観光に関心がある方だけでなく、地域づくりやまちづくりに関わるすべての方に読んでいただきたい一冊です。

コメント