「この人が犯人だ」と確信した瞬間に、足元がごっそり崩れる感覚を味わったことはありますか。ミステリの醍醐味であるどんでん返しは、その驚きの質によって作品の格が決まります。
遠坂八重による『死んだら永遠に休めます』は、「どんでん返しがある」と聞いて想像できるほとんどすべての予測を、軽々と超えてきます。問題は犯人が誰か、ではありません。誰が本当の被害者なのか――その前提ごと反転するのです。この一点において、本書はミステリという形式の可能性を極限まで押し広げた作品だといえます。
「パワハラ上司が殺された」から始まる、ありきたりでない物語
物語の設定を聞くと、最初は「よくある話」に思えるかもしれません。理不尽なパワハラ上司が部下に殺される。犯人は誰か。容疑者は部下の全員。
確かにその通りです。しかし本書が恐ろしいのは、この「よくある設定」が完全に見せかけだという点にあります。
上司・前川が失踪した直後、主人公の青瀬のもとに前川のアドレスから一通のメールが届きます。件名に「私は殺されました」と書かれたそのメールの本文には、容疑者候補として青瀬を含む部下全員の名前が列挙されていました。そこから青瀬は、派遣社員の三井仁菜とともに事件の真相を探り始めます。
読者はここで自然に「青瀬 = 被害者」という立ち位置で物語に乗り込みます。善良な会社員が不当に疑われ、真犯人を見つけ出そうとする物語。そう思いながらページをめくるのです。……しかしこれが、著者が仕掛けた罠の入口でした。
「同僚たちは上司を殺した」ではなく「同僚たちは私を殺そうとしていた」
ミステリの読者なら、途中で「もしかして仲間全員が共謀しているのでは?」と疑い始めるかもしれません。本作でも、派遣社員の仁菜がそれに近い仮説を立てます。「同僚たちが結託して前川を殺害し、その罪を青瀬一人に被せようとしているのではないか」という推理です。
この仮説は、読者にとってある種の安堵感を与えます。「青瀬は正しく、悪いのは同僚たちだ」という構図が、また一段はっきりする気がするからです。
ところが終盤で明かされる真相は、この仮説すら根底から覆すものでした。
同僚たちが実際にやろうとしていたのは、「前川を殺してその罪を青瀬に被せること」ではありませんでした。「青瀬を殺して、その罪を失踪した前川に被せること」だったのです。
被害者は前川でも青瀬でもなく、青瀬こそが本当の標的だった。この反転は、単なる「犯人当て」のミステリが絶対に持ち得ない、異質な恐怖をもたらします。なぜなら、読者はずっと青瀬の目を通して物語を見ていたからです。つまり読者自身も、同じ罠の中に引き込まれていたことになります。
動機が「普遍的」であるほど、怖い
「全員に動機がある」という設定は、ミステリにとって諸刃の剣です。なぜなら、動機が均質化されることで、かえって真犯人が絞りにくくなってしまうからです。
本作では、部下全員が前川の圧政に苦しんでおり、全員が多かれ少なかれ「死んでほしい」と思っていた。それは事実です。しかし同時に、青瀬に対しても全員が不満を抱えていたことが徐々に明らかになっていきます。
青瀬は自分を「理不尽な環境の被害者」だと思っています。読者もそう思って読んでいます。しかし職場の側から見ると、青瀬は「私が職場で頭を悩ませるタイプの子」と評されるような、周囲に多大な負荷と軋轢を生じさせる存在でした。善意と無自覚の間に積み重なった迷惑が、最終的に同僚たちの殺意という極端な形で結晶化してしまったのです。
これは日常の組織でも起き得ることです。「自分は被害者だ」という確信は、実は視点の一面にすぎないかもしれない。そんな不安を、本書は静かに、しかし確実に読者の心に植え付けます。
書店員が「予測不能」と声を揃えた仕掛けの巧妙さ
本作の発売前から、書店員や書評家からの絶賛の声が相次ぎました。「全く展開予測不能!」「勘のいい読者なのですが、この結末は予想外でした」「加速する人間不信が最後まで止まらない悪夢の転落劇」。
これほど一致して「予測できなかった」と評される作品は、そう多くありません。その理由は、本作のどんでん返しが単なる「情報の隠蔽」ではないからだと思います。情報はすべて開示されていました。ただ、読者が「こういう話のはずだ」という先入観の中で、目の前にある情報を別の文脈で読んでしまっていたのです。
ミステリとして優れた仕掛けというのは、種明かしの後に「騙された!」ではなく「全部あったじゃないか!」と思わせるものです。本作はまさにその水準を達成しています。ぜひ読み終えた後に、冒頭に戻って読み直してみてください。至る所に伏線が仕込まれていることがわかり、著者の構成力の高さに改めて驚くはずです。
ミステリの「お約束」を逆手に取った革新性
本格ミステリには、長い歴史の中で生まれた「お約束」があります。その一つが、「名探偵は事件の外側に立ち、真実を明かすことで世界に秩序を取り戻す」というものです。
本作はこのお約束を完全に裏切ります。主人公の青瀬は名探偵ではなく、自分が標的であることも知らないまま捜査をしていた当事者です。そして真相が明かされた後にやってくるのは、カタルシスではなく虚無感です。謎は解かれましたが、「正しさ」は回復しません。誰も救われない。それどころか、青瀬自身の自己認識すら崩れ去ります。
管理職として組織の中にいると、ときに「自分の見ている景色が正しいはずだ」という確信に頼ることがあります。本書はその確信の危うさを、ミステリという形式を借りて最大限のインパクトで提示してくれます。「自分は被害者だ」という立場は、本当に絶対的なものなのか。周囲の人間は、自分のことをどう見ているのか。
ぜひ手に取って、このどんでん返しを体験してみてください。読み終えた後、きっと職場で隣に座っている人の顔を、少し違う目で見るようになるはずです。

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