「愛情」でも「義務」でもなく――高瀬隼子『水たまりで息をする』が問う家族という制度の限界

「夫が変になった。でも、なぜか離れられない」。そんな状況に直面したとき、あなたはどうするでしょうか。怒りますか。説得しますか。それとも、ただ傍に居続けますか。

高瀬隼子の中編小説『水たまりで息をする』は、そんな問いを正面から突きつけてくる作品です。第165回芥川賞候補となった本作の主人公・衣津実は、ある日突然お風呂に入れなくなった夫と生活を共にしながら、「夫婦とは何か」「ケアとは何か」という問いと静かに格闘し続けます。愛情でも義務でもない、もっと根源的な何かで他者と繋がることはできるのか。本書は、私たちが普段当たり前のように信じている「家族」という制度の、恐ろしいほどの脆さを浮き彫りにします。

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1. 「夫婦の問題」として押しつけられるとき

社会で機能できなくなった人間を、誰が支えるのか。この問いに対する本作の答えは、あまりにもリアルです。

夫の体臭が職場で深刻な問題として取り沙汰されるようになったとき、その事実を衣津実のもとに届けたのは義母でした。そして義母は、この事態を夫個人の心身の不調としても、職場環境の問題としても捉えません。「夫婦の問題」として、衣津実の責任を問うのです。

社会のシステムに適応できなくなった人間が引き起こしたエラーは、あっという間に妻の管理不足という問題に変換される。この描写は、読んでいて胃が痛くなるほどリアルです。会社で部下やメンバーが問題を起こしたとき、上司として責任を問われた経験のある方ならば、この理不尽さに深くうなずくのではないでしょうか。外部のシステム障害が個人の責任に帰着するという構図は、職場にも家庭にも潜んでいます。

夫がなぜ入浴を拒絶するようになったのか、その根本的な原因は作中で一切明かされません。しかし、その原因を追求する間もなく、問題は「妻が何とかすべきこと」として衣津実の肩に載せられてしまう。家族という制度が、ケア労働の責任を特定の個人(多くの場合、女性)に集中させる装置として機能している現実を、著者は義母という存在を通じて鮮やかに描き出しています。

2. 衣津実はなぜ夫を「ただ見ていた」のか

注目すべきは、衣津実自身の行動です。彼女は義母に責められながらも、夫に怒りをぶつけるわけでも、医療機関に連れて行くわけでも、最終的に見捨てるわけでもありません。ペットボトルの水を渡し、雨に濡れて帰ってくる夫を受け入れ、ただ傍にいることを選び続けます。

読者の多くが「なぜ衣津実はもっと何かしないのか」と感じることでしょう。しかしある書評は、この衣津実の態度を鋭く読み解いています。彼女は夫を「道義的なこと」や「社会規範」で裁くのではなく、まるで作中に登場する犬「台風ちゃん」という生命を扱うような感覚で、夫のことも一つの「生命」として受容しているのではないか、というものです。

これは非常に示唆的な読み方です。私たちが誰かをケアするとき、私たちは無意識のうちに「こうあるべき」という規範を相手に当てはめます。「ちゃんとお風呂に入るべき」「仕事をするべき」「社会人として振る舞うべき」。そしてその規範から外れた相手に対し、説得したり、矯正しようとしたり、あるいは諦めて見捨てたりします。

衣津実は、それをしません。夫を「夫」という役割で見ることを、どこかの時点で手放しているように見えます。社会的な役割を剥ぎ取られた、ただの「生命体」として夫を見始めたとき、衣津実のケアはまったく異なる次元に入っていきます。

3. 「かすがいのない夫婦」が問いかけるもの

本作の重要な設定の一つが、衣津実夫婦に子どもがいないことです。これは意図的な選択だと、著者はインタビューで語っています。

子どもは、夫婦を社会と繋ぎとめる「かすがい」です。教育、保育、学校行事、将来への責任……子どもを持つことで、夫婦は社会との接点を多数持つことになります。それは同時に、社会から逸脱することへの強力なブレーキにもなります。

しかし衣津実たちにはそのブレーキがありません。夫が社会から完全に脱落し、二人で郷里の田舎に移住しても、それを引き留める「かすがい」が存在しないのです。そこに残るのは、社会的役割をすべて剥ぎ取られた、個と個の、あるいは生命と生命の、むき出しの関係だけです。

これは現代の夫婦関係において非常に本質的な問いを投げかけます。子どもが巣立った後の夫婦、あるいは最初から子どものいない夫婦が、「なぜ一緒にいるのか」という問いに向き合うとき、そこにあるのは何でしょうか。愛情?習慣?経済的な依存?それとも、もっと言葉にしにくい何か?

本作は答えを出しません。しかし衣津実が体臭を放つ夫と共に田舎で生きていく姿は、「なぜ一緒にいるのか」という問いに対して、言語化できない何らかの答えを体現しているように見えます。

4. 「正しいケア」という幻想からの解放

現代社会において、「正しいケア」の形は想像以上に細かく規定されています。家族が心身を崩したときには医療機関へ連れて行く、専門家の助けを借りる、回復を支援する……これらはすべて「正しいケア」の形として社会的に承認されたものです。

しかし衣津実は、そのどれも徹底しません。夫を精神科に連れて行くわけでも、強制的に入浴させるわけでも、職場復帰を促すわけでもない。ただペットボトルの水を渡し、雨に濡れて帰ってくる夫を受け入れ、最終的には二人で田舎に移住することを受け入れていきます。

ある書評はこれを「おままごとのようなケア」と表現しています。本格的でもなく、効果的でもなく、社会的に見れば不十分かもしれない。しかしそこには、規範的な「正しいケア」を超えた何かがあるように感じられます。

正しくあることの圧力から離れた場所で、それでも傍にいることを選ぶ。そこに、ケアの本質的な何かが宿っているのかもしれません。それは愛情とも義務とも呼べない、もっと根源的な、生命としての共存の形です。

5. 家族制度への問いは、職場のケアにも通じる

ここで少し視野を広げてみましょう。本作が問う「ケアの限界」は、家族という文脈を超えて、職場における人間関係にも深く通じるテーマです。

部下が精神的に追い詰められているとき、上司としてどこまで関われるのか。「正しい対応」をマニュアル通りにすれば済む話なのか。相手を役割(部下)として扱うのか、一人の人間(生命)として向き合うのか。そのどちらを選ぶかで、関係の質はまったく変わってきます。

衣津実が夫を「夫」という役割から解放して見始めたように、上司も部下を「部下」という役割だけで見るのをやめたとき、関係の本質が浮かび上がってくることがあります。もちろん職場と家庭は異なります。しかし「役割を超えて他者と向き合うとはどういうことか」という問いは、共通しているのです。

衣津実の選択が正しかったのかどうか、本作は最後まで判断を下しません。それは読者一人ひとりが、自分自身の経験と重ね合わせながら考えるべき問いとして、静かに委ねられています。

6. 余白の多い物語が残す、深い問いかけ

田舎に移住した後の描写は、ある種の静けさに満ちています。夫は毎日川で水浴びをし、衣津実はそれを見守る。社会から隔絶されながらも、二人は奇妙な均衡の中で生きている。

しかし終盤、豪雨で河川増水の警報が鳴り響く中、衣津実は川へ向かったであろう夫を探しに外へ出ます。「水たまりで息をする」という本のタイトルが、ここで鮮烈な意味を持ちます。どこへも行けず、普通の水には触れられず、それでも水の傍にいなければ生きられない。そんな夫の存在を、衣津実はただ受け止めようとする。

物語はそこで終わります。夫のその後は描かれません。二人の関係がどうなったのかも、わかりません。しかしこの終わり方は、「家族とは何か」「ケアとは何か」という問いを、答えのないまま読者の胸に残すための、著者の意図的な選択だと感じます。

モヤモヤします。スッキリしません。しかしそのモヤモヤこそが、私たちが普段避けている問いと向き合うための、最良の入口なのかもしれません。家族や仕事のことで「これでよいのだろうか」と感じているとき、ぜひこの物語を手に取ってみてください。きっと、あなた自身の問いを見つける手がかりになるはずです。

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