もし愛する子どもが、理不尽な暴力によって命を奪われたとしたら、あなたはどうしますか。「法の裁きに任せる」と言い切れますか。そして、もし法律がその加害者を十分に裁けないと知ったとき、それでも黙って待ち続けることができるでしょうか。
東野圭吾の『さまよう刃』は、そんな究極の問いを読者に突きつける社会派ミステリーです。サラリーマンとして平凡に生きてきた一人の父親が、娘を奪われたことで「復讐者」へと変貌していく様子を追いながら、読者はいつしか彼の行動を止めることができなくなっていきます。日々、部下を率い、家族を養い、社会のルールの中で生きているあなたにこそ、読んでほしい一冊です。
平凡な父親が「復讐者」に変わる日
物語の主人公、長峰重樹は、妻を亡くし、高校1年生の一人娘・絵摩を男手一つで育てているサラリーマンです。特別な才能があるわけでも、権力があるわけでもない。ただ、娘だけが生きがいだった普通の中年男性です。
ある夏の夜、花火大会から帰らなかった娘の遺体が荒川の下流で発見されます。その後、長峰の留守番電話に届いたのは、犯人の名前と住所を告げる謎の密告メッセージでした。半信半疑で現場へ向かった長峰が目にしたのは、娘が複数の少年たちによって凌辱され、恐怖の中で命を落としていく様子を克明に記録したビデオテープでした。
そこで彼は、ある「現実」に気づきます。もし犯人たちが未成年であれば、少年法によって守られ、数年で社会へ戻ってくる可能性があるということです。法の裁きに絶望した長峰は、かつて趣味だったライフルを手に取り、独りで犯人を追い始めます。
「法が裁けない」という絶望の重さ
本書が読者に突きつける最も重い問いは、「法制度の死角」についてです。日本の少年法は、青少年の健全な育成と更生を重視した設計になっています。薬物やアルコールによって判断能力が著しく低下していたと認定されれば、重大な犯罪を犯しても刑が軽くなる可能性があります。
長峰を突き動かしたのは、まさにこの現実への恐怖でした。娘は尊厳を踏みにじられながら命を奪われた。それなのに、加害者たちは数年後に何事もなかったかのように社会へ戻ってくるかもしれない。法は加害者を守るために存在するのか。 彼の怒りと絶望は、そこから生まれています。
私たちはふだん、法律を「自分たちを守るもの」だと信じています。ところが被害者遺族の立場に立ったとき、その法律が「守る側と守られる側を逆転させているのではないか」と感じる瞬間があります。長峰の行動は狂気かもしれません。しかし、その狂気に至る道筋は、恐ろしいほど論理的なのです。
「復讐は何も生まない」という言葉の空虚さ
私たちは子どもの頃から「復讐は何も生まない」と教わってきました。それは正しい教えです。しかし、この小説を読んでいると、その言葉がどこか空々しく聞こえてきます。
長峰を追う警視庁の刑事・織部は、優秀で誠実な人物として描かれています。彼は長峰を逮捕しなければなりません。それが仕事であり、法の番人としての使命だからです。しかし作中で彼はこう漏らします。「法律は完璧ではない。その完璧でないものを守るために、警察は人間の心を踏みにじってもいいのか」と。
国家のルールと人間の感情のぶつかり合い。 この一文が、本書のテーマを鮮やかに言い表しています。管理職として部下を律し、組織のルールを守る立場にあるあなたも、きっとこの問いの重さを肌で感じるはずです。ルールは必要だ、しかしルールだけでは救えないものがある。その矛盾の前で、人間はどう立ち向かうのか。
「傍観者」の罪という視点
本書で見落とせないのが、密告者・中井誠という人物の存在です。彼は犯行グループの一員でありながら、直接手を下すことはありませんでした。良心の呵責に耐えられなくなった彼が長峰に犯人の情報を伝えたことで、物語全体が動き出します。
中井は「悪人」でしょうか。それとも「良心のある人間」でしょうか。彼は犯罪を知りながら止めず、仲間の顔色をうかがいながらその場にとどまり続けました。直接手を下さなくても、その場にいて何もしなかったことは、どれほどの罪なのか。
職場でも家庭でも、私たちは「見て見ぬふりをする」場面に時折直面します。上司の不正に気づきながら口をつぐむ、いじめを目撃しても立ち去る。中井の存在は、そうした「傍観者としての責任」を静かに、しかし鋭く問いかけてきます。
父親として、この物語を読んだとき
この小説が特別に重く感じられるのは、長峰重樹が「特別な人間」ではないからです。彼は裏社会の人間でも、格闘技の達人でもありません。ただの、普通の父親です。妻に先立たれ、娘と二人で地味に生きてきた中年のサラリーマンです。
中学生の息子や小学生の娘がいるあなたにとって、長峰の絶望は他人事ではないはずです。子どもたちが毎日無事に家に帰ってきてくれることの、当たり前のありがたさ。もしそれが理不尽に奪われたとき、自分はどう動くのか。答えを出すことが怖くなる問い。 しかしこの小説は、その問いから目を背けさせてくれません。
東野圭吾はこの作品で、「謎解き」というカタルシスをあえて封印しています。犯人は序盤から明らかです。読者に提供されるのは知的な満足感ではなく、「あなたならどうする」という逃げ場のない問いだけです。そこにこそ、本書の凄みがあります。
「正義」は一つではない、という当たり前の残酷さ
法は正義を実現するために存在するものです。しかし、本書を読み終えたとき、その前提がいかに脆いものかを実感させられます。加害者を罰し社会を守るための正義と、愛する人を奪われた者が求める正義は、必ずしも同じ方向を向いていません。
長峰の行動を止めようとする警察は「悪者」ではありません。菅野たちという真の悪を憎みながらも、法を守るために長峰に銃を向けなければならない。その理不尽さを背負いながら、それでも職務を全うしようとする刑事たちの姿もまた、本書の大きな読みどころです。
複数の「正義」がぶつかり合う物語。 読後、しばらくの間、答えを探してしまいます。そして気づくのです。答えは、おそらく出ないということに。それでも考え続けることを、この本は促してきます。
ビジネスの世界でも、「ルールが正しいとは限らない」という場面はあります。組織の論理と人間の感情が激突する瞬間、どちらを選ぶのか。東野圭吾は小説という形式を借りて、そのことを私たちに深く考えさせてくれます。ぜひ、夜静かな時間に手に取ってみてください。読み始めたら、きっと止まらなくなるはずです。

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