あなたは「クサいメシ」という言葉を聞いたことがありますか。刑務所の食事を表現する際に使われるこの言葉ですが、実際の刑務所ではどのような食事が提供されているのでしょうか。
実は、刑務所の給食を作っているのは受刑者自身だという事実をご存知でしたか。そして、その指導を行っているのが、全国にわずか20人ほどしかいない法務技官の管理栄養士なのです。
本記事では、現役の刑務所栄養士である黒柳桂子氏の著書『めざせ! ムショラン三ツ星』を通じて、これまで知られることのなかった刑務所の食事事情と、そこで繰り広げられる人間ドラマをご紹介します。限られた予算と厳格なルールの中で、いかに工夫を凝らして食事を作っているのか、その驚きの実態に迫ります。
刑務所の食事を作るのは受刑者自身という驚きの事実
多くの人が知らない事実として、刑務所の給食は受刑者自身によって調理されています。著者の黒柳桂子氏が刑務所に赴任した際、「誰が調理を教えるのですか」という質問に対し、刑務官から「そりゃあ、栄養士さんだよ(笑)」と返答されたエピソードが印象的です。
刑務所の炊場(炊事工場)に配属されるのは、素行が良いと判断された受刑者たちですが、彼らの大半は料理経験がほとんどありません。著者が勤務する岡崎医療刑務所では、11人の受刑者(交替制のため実質7~9人)で110人分の給食を作っています。
炊場での作業は、刃物や火を扱うため、特に厳重な管理下で行われます。調味料を入れるたびに「ミョーガ入れます!」「しょう油入れます!」と報告し、刑務官が「よし!」と指さし確認する光景は、まさに刑務所ならではの特殊な調理環境を物語っています。
料理初心者たちが引き起こす珍事件の数々
料理経験のない受刑者たちによる珍事件は、読者を笑わせると同時に、彼らの真剣な取り組みを感じさせます。
ふかしたジャガイモを冷ますために水をかけてしまう、冷凍コロッケが次々と爆発する、20人分の卵焼きを均等に切り分けるのに苦労するといった出来事が日常的に起こります。これらのエピソードは、料理に慣れ親しんだ私たちには想像もつかない失敗談ですが、彼らにとっては真剣な学習の過程なのです。
著者は、このような失敗を責めることなく、むしろ「この…バカ息子たちがーー!」という愛情あふれる叫び声とともに、辛抱強く指導を続けています。エプロンを一度もつけたことがないような男性たちが、少しずつ料理を覚えていく姿は、まさに「食育」の原点を見るようです。
厳しい予算制約と独特なルールの中での創意工夫
刑務所の給食には、一般の食事では考えられないような制約があります。1日1人あたり約520円という限られた予算の中で、主食(米7:麦3の割合)と副食を用意しなければなりません。
さらに、刑務所独自のルールも存在します。みりんは度数のあるお酒とみなされ使用禁止、バナナの皮はタバコとして利用される可能性があるため持ち込み禁止、アルミ包装のチーズもアルミ箔をコンセントに近づけ火花を出す方法があるため使用不可といった、安全管理と不正防止の観点から設けられた厳格な規則があります。
著者はこれらの制約を逆手に取り、創意工夫を凝らします。余った災害時用の缶入りパンでパンプディングを作ったり、年末に途絶えていた年越しそばを復活させるため、カップ麺をダース買いして湯切り時間を研究したりと、受刑者たちに少しでも楽しい食事を提供しようと努力しています。
受刑者たちとの心の交流と「食」の持つ力
著者は受刑者たちの生育歴や罪状を知らされないという制約がある中で、彼らを「チームメイト」として捉え、料理を通じて人間的に向き合っています。この「知らない」という制約が、かえって偏見のない関係性を築く基盤となっているのです。
料理初心者の受刑者たちが、著者の指導のもとで少しずつ調理技術を習得し、できた料理を「ウマかったっス」と喜ぶ姿に、著者は深いやりがいを感じています。この一言は、単なる味の感想を超え、受刑者と著者との間に築かれた信頼関係と、料理を通じた達成感の共有を象徴しています。
受刑者にとって食事は「生きていくなかで本当に数少ない楽しみ」です。人にも会えない、見たいものも見られない環境の中で、限られた予算でできるだけおいしいものを食べさせたいと願う著者の思いと、それに応えようとする受刑者たちの努力は、食が持つ本質的な力を改めて認識させてくれます。
「ムショラン・レシピ」が示す創意工夫の結晶
本書では、刑務所内で考案されたオリジナルレシピも数多く紹介されています。全国刑務所人気ナンバーワンの「どんぶりぜんざい」をはじめ、「ピーナツ煮」や「獄旨ドーナツ」といった、制約の中から生まれた創意工夫の結晶とも言えるレシピが公開されています。
これらのレシピは、限られた環境下での工夫の産物であり、受刑者たちのささやかな楽しみを追求し、彼らの食生活を豊かにしようとする著者の努力の象徴でもあります。から揚げを手作りにすることで、時間と手間はかかるものの、量と味を向上させるといった取り組みは、著者の「こんなもんでいいや」ではない、プロとしての姿勢を強く感じさせます。
社会復帰への橋渡しとしての「食育」
本書を通じて浮かび上がってくるのは、食が単なる栄養補給に留まらず、受刑者の更生において重要な役割を果たしているという事実です。料理を通じて、受刑者たちは規律を守ること、協力すること、そして目標を達成することの喜びを学んでいます。
元法務省矯正局長の名執雅子氏が推薦文で述べているように、「食」が受刑者の更生にとって重要な基盤となっているのです。健康な食事でお腹を満たすこと、食事がどのように作られるのかを知り、作ってくれる人に感謝することは、受刑者の内面を豊かにし、社会復帰のための基本的な生活能力や自律性を育む重要な要素となります。
著者が10年間にわたって「男の料理教室」でのべ1000人の高齢男性に指導した経験は、この矯正教育的アプローチの根底にある信念を裏付けています。料理が人間関係構築や自己変革のツールとなり得るという著者の確信が、刑務所での活動にも活かされているのです。
まとめ
『めざせ! ムショラン三ツ星』は、刑務所という特殊な環境における「食」の役割を通じて、人間性の回復と成長の可能性を示した貴重な記録です。著者の黒柳桂子氏の温かい視点と、受刑者たちとの心の交流は、私たちに食の持つ本質的な力を改めて認識させてくれます。
限られた予算と厳格なルールという制約の中で生まれる創意工夫は、困難な状況下での人間の粘り強さや創造性を象徴しています。この本は、刑務所という遠い存在を「食」という身近な行為を通じて理解させ、そこで生きる人々の人間模様に深い共感を抱かせる一冊として、多くの読者に推奨できる作品です。

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