ポップカルチャーを地域の観光資源に変える手法を知りたいと思いませんか。地方創生や町おこしに携わる方なら、アニメやマンガの力を活用して地域を盛り上げたいと考えているはずです。岡本健氏による「巡礼ビジネス ポップカルチャーが観光資産になる時代」は、アニメ聖地巡礼という現象を初めて体系化し、実務家が活用できる戦略的フレームワークを提供した画期的な一冊です。本書が描く2018年時点のモデルは、その後のVTuber台頭により歴史的なものとなりましたが、コンテンツツーリズムの基礎を学ぶ上で今なお不可欠なテキストとして価値を放っています。
ファン主導で生まれる聖地の価値
本書が最初に提示する重要な概念は、聖地の再定義です。著者は聖地を宗教的な権威ではなく、シンプルに「かかわる人々にとって大切な場所」と定義しています。この概念転換により、観光地のあり方が根本的に問い直されることになりました。
従来型の行政や観光業界がトップダウンで指定する名所旧跡とは全く異なり、ポップカルチャーの聖地はファンたちによってボトムアップで発見されます。インターネットを駆使するファンが価値をコミュニティ内で共有し承認することで、聖地は成立するのです。
聖地巡礼はあくまでファンの内発的な欲求から生まれる自発的な行動です。作品に深く感動したファンが「あのキャラクターが見た景色を自分も見てみたい」「物語が生まれた空気を感じたい」という強い思いに突き動かされて現地を訪れます。このプロセスにおいて、旅行者は単なる消費者ではなく、情報を創造し発信する能動的な主体として位置づけられるのです。
創造性がコンテンツツーリズムを駆動する
では、何が大切な場所としての価値を生み出すのでしょうか。著者は第3章で、その原動力を創造性に見出しています。本書によれば、観光とは本質的に「差異を売る産業」であり、その差異は創造性によって生み出されます。
この創造性は二つの側面から発揮されます。一つはアニメ制作者が物語を通じて特定の場所に新たな意味を与える創造性です。もう一つは、より重要視されるべき、ファン自身が発揮する創造性です。
ファンは作中で描かれた何気ない日常風景の中に物語の文脈を読み込み、それをSNSなどで共有することで、ありふれた景観を特別な聖地へと再評価していきます。このファンの創造的な解釈と情報発信こそが、ボトムアップ型コンテンツツーリズムのエンジンなのです。
点から面への展開戦略
ファンによって生み出された聖地という価値を、いかにして持続可能な観光資産へと転換させるか。第5章「観光『資産』化への道」では、そのための具体的な戦略が提示されています。
著者は単一の場所への訪問で終わらせず、周辺の地域資源と結びつけて広域的な体験へと展開させることの重要性を説いています。具体的な手法として、コンテンツをフックに既存施設への新規顧客を誘致する、物語の文脈そのものを観光資源として活用する、そして将来的な活用のために作品情報を保存・整理するアーカイブやデータベースの重要性を指摘しています。
聖地巡礼と名所や自然、グルメなどの地域固有の観光資源や文化を組み合わせれば、誘致や消費の相乗効果が生まれます。スタンプラリーやツアーなど体験型のイベントと相性が良く、うまくいけば作品とは直接関係のない施設や店舗へ足を伸ばしてもらえるでしょう。
これらは一過性のブームで終わらせず、地域に根差した経済的・文化的価値を構築するための戦略的視点です。
実践者のための具体的ツールキット
最終第6章「巡礼ビジネスに必要なこと」は、本書が実践的な手引きであることを明確に示します。ここでは巡礼ビジネスを始めるための具体的なヒントが列挙されています。
効果的な情報発信プラットフォームの構築、キャラクターなどの知的財産権の適切な管理、地域における創造性を育む教育の充実、そして新たなプロジェクトを育成するための「ふ化器」の必要性など、具体的な行動計画にまで踏み込んでいます。この章は本書全体で展開された理論と分析を、現場で実行可能なアクションへと結びつける役割を果たしています。
地域側にとって、ファン主導のボトムアップ型聖地巡礼は大きなメリットがあります。現在主流となっている製作と地域がタイアップする形とは異なり、ファンの自発的な熱意が起点となるため、本物の価値が生まれやすいのです。
VTuber時代への橋渡し
本書は2018年時点のアニメ聖地巡礼ブームを体系化したものですが、著者の研究はその後も進化を続けています。特にVTuberに代表されるインタラクティブで仮想空間起点のコンテンツの登場は、本書のモデルを相対化し、乗り越えるべき対象としました。
著者が注目するVTuber「周央サンゴ」とテーマパーク「志摩スペイン村」のコラボレーション事例は、全く異なるモデルを提示しています。このケースでは観光の動機は固定された物語ではなく、一人のVTuberが特定の場所に対して抱く愛情という、現在進行形でインタラクティブなナラティブによって生成されます。
ファンはまず配信という情報空間の中でVTuberの体験を共有し、そのVTuberと同じ経験をしたいという動機で物理的な場所へと向かいます。これは従来の「場所基盤」のツーリズムから「ペルソナ基盤」のツーリズムへの移行を示唆しています。
著者自身も「ゾンビ先生」というVTuberとして活動し、その行為を「情報空間のフィールドワーク」と位置づけています。仮想的なアイデンティティを通じてコミュニティに能動的に参与する研究手法は、場所やコミュニティの概念が物理空間と情報空間の境界を越えて存在する現代において不可欠となっています。
静的な資産から共創型ナラティブへ
本書は2010年代に隆盛を極めたアニメ聖地巡礼ブームの成功事例やノウハウを、初めてアクセスしやすい形で体系化した画期的なマニュアルです。自治体や関連企業に対し、ポップカルチャーを観光資源化するための戦略的フレームワークを提供した功績は大きいと言えます。
しかし本書は基本的に、静的なメディアと物理的な場所を中心とした2018年時点のモデルに基づいています。その後のVTuber登場は本書のモデルを相対化しましたが、コンテンツツーリズムの未来は静的な資産の活用から、インタラクティブな仮想ペルソナと共にナラティブを共創する方向へと向かっています。
このパラダイムシフトは、本書の核心であった「コンテンツ」「コミュニティ」「資産」といった概念そのものを再定義するものです。したがって本書は現代コンテンツツーリズムの基礎を学ぶ上で不可欠なテキストであると同時に、その歴史的な位置づけを理解した上で読むべき文献でもあるのです。
本書が描く2018年時点のツーリズムモデルは、VTuberなどの新たな現象の登場により、ある側面では歴史的なものとなりました。しかし本書が提起した核心的な問い、すなわち人々にとっての大切な場所をいかに創造し育んでいくかという課題は、技術やメディアが変化してもなお普遍的な重要性を持ち続けています。本書はコンテンツツーリズムの過去を理解するための必読書であると同時に、その未来を考えるための不変の問いを提供する、今日的意義の深い一冊なのです。

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