毎日の通勤電車の中で、あなたはふと考えたことはありませんか。隣に座っている見知らぬ人と、もしかしたら血が繋がっているかもしれない、と。そんな馬鹿な、と笑い飛ばせるでしょうか。山口未桜のデビュー作『禁忌の子』は、生殖医療という科学の進歩が生み出した、決して笑えない悲劇を描いた衝撃作です。本書は第34回鮎川哲也賞を満場一致で受賞し、2025年本屋大賞で第4位に輝いた話題作。現役医師である著者が描く医療ミステリの傑作は、あなたの価値観を根底から揺さぶることでしょう。

自分と瓜二つの遺体が語りかけるもの
物語は、救急医・武田航のもとに運ばれてきた一体の溺死体から始まります。身元不明のその遺体は、驚くべきことに武田自身と瓜二つの容貌をしていました。この衝撃的な出会いが、武田の人生を一変させる調査の始まりとなるのです。
冷静沈着な旧友の医師・城崎響介の助けを借りながら、武田は自分のルーツと亡くなった男の正体を探り始めます。調査の過程で、鍵を握る産婦人科医が密室内で遺体となって発見されるという事件が発生。物語は個人のアイデンティティを探るサスペンスから、本格ミステリへと姿を変えていきます。
現代のパートと過去のパートが交互に語られる巧みな構成により、武田の出生にまつわる秘密が徐々に明らかになっていきます。読者は主人公とともに、思いもよらない真相へと導かれていくのです。
タイトルに隠された二重の罠
本作の最大の仕掛けは、『禁忌の子』というタイトルが持つ二重の意味にあります。これこそが、本作を単なるミステリ小説から文学作品へと昇華させている核心部分なのです。
物語を読み進める当初、読者はこのタイトルを、匿名の精子提供によって生まれ、その出自が家族の秘密とされている子供たちを指すものと解釈するでしょう。生殖医療によって誕生した命が、社会的なタブーとして扱われる状況を描いているのだと。
しかし物語の終盤、読者は衝撃的な真実に直面します。主人公の武田、彼と瓜二つの兄・信也、そして武田が愛する妻・絵里香の三人は、同じ精子提供者から生まれた生物学的な兄妹だったのです。つまり、武田と絵里香は血の繋がりを知らぬまま結婚していたことになります。
ここに至って、タイトルの真の意味が明らかになります。真の「禁忌の子」とは、彼ら自身ではなく、武田と絵里香という血縁者同士の間に生まれた子供のことだったのです。このどんでん返しは、物語全体を遡及的に再定義し、読者に戦慄と深い倫理的問いを投げかけます。
親の願いと子の権利の狭間で
この衝撃的な展開の背景には、生殖医療の黎明期における倫理的な問題が横たわっています。本作は、子供を望む夫婦の切実な願いと、その手段によって生まれた子供たちが持つ出自を知る権利との間の葛藤を鋭く描き出しています。
物語に登場する産婦人科医・京子の述懐が、このジレンマを象徴しています。子供を持ちたいという夫婦の願いを叶えることばかりに気をとられていて、産まれてくる子供たちの権利をあまりにも蔑ろにしてきたのではないか、という彼女の言葉は重く響きます。
親の願いを叶えるという医療の光の側面が、子の人権という影を生み出しかねない。生殖医療が内包する根源的な問いが、ここには提示されているのです。
医療技術の進歩がもたらす予期せぬ結果
本作の著者である山口未桜は、消化器内科を専門とする現役の医師です。医師としてのキャリアの中で、新型コロナウイルスのパンデミックと出産が重なり、臨床研究の継続が困難になるという壁に直面しました。この経験が、彼女を執筆へと向かわせる転機となったのです。
日中は医師として勤務し、育児を終えた後の深夜11時から午前2時までを執筆時間に充てるという生活の中から、この物語は生み出されました。著者が経験した医師としてのキャリアにおける挫折や限界感は、本作のテーマと深く共鳴しています。
生命を創造する生殖医療の倫理、そして医療技術の進歩がもたらす予期せぬ結果という物語の核心は、著者自身が直面した医療現場の現実と限界から生まれた問いへの、文学を通じた応答なのです。
密室殺人という論理が感情を解剖する
本作は、社会問題を扱いながらも、本格ミステリとしての骨格を失っていません。密室殺人という古典的なガジェットは、単なる謎解きのパズルとして機能するだけでなく、登場人物たちが過去の隠された真実と向き合うことを強制する装置となっています。
探偵役の城崎が用いる背理法などの論理的推論は、非合理的で感情的な悲劇の真相を解き明かすための、冷徹な理性の道具として描かれます。生殖医療の倫理というテーマは、感情的で明確な答えのない混沌とした領域に属しています。
一方で、本格ミステリというジャンルは、論理、伏線、そして解決可能な合理的答えを前提としています。本作では、城崎による密室殺人の論理的な調査が、物語を前進させる明確な駆動力となります。論理というメスが、いかにして人間の深い悲劇を解剖しうるかを巧みに描き出しているのです。
読者を引き込む一気読みの魔力
本作は、読者や批評家から圧倒的に肯定的な評価を受けています。特に共通して指摘されるのは、一度読み始めたらやめられない一気読みの魅力です。物語冒頭から読者を引き込み、最後まで緊張感を途切れさせない構成が高く評価されています。
物語の終盤で明かされる真相は、多くの読者にとって予測不可能であり、強烈な衝撃と深い問いを残したと評されています。特に、タイトルが持つ二重の意味は秀逸だと絶賛されました。
著者が現役医師であることから、作中の医療現場の描写や倫理的な議論には強い説得力があり、物語のリアリティを高めているとの声が多数寄せられています。お医者さんならではの情報量、調査や取材もしっかりされているようで濃厚なミステリーに仕上がっているという評価もあります。
結末に残る感情の混濁
本書の書評の顕著な特徴は、単なるプロットの評価に留まらず、作品が提示する社会的・倫理的な問題についての深い議論に発展している点です。読者は、虐待された兄・信也の過酷な人生、両親や医師たちの道義的責任について真剣に考察しています。
そして何より、医療の進歩は必ずしも人間を幸福にするとは限らないのではないかという根源的な問いに直面しています。これは、本作が単なるミステリ小説の枠を超え、社会的な議論を喚起する力を持った作品であることを証明しています。
結末の展開は予想できてしまったという読者もいますが、いわゆるハッピーエンドでもないにもかかわらず、それがこの作品の持つ魔力であり、読後に残る感情の混濁こそが本書の魅力だと評価されています。
生命倫理と本格ミステリの見事な融合
山口未桜のデビュー作『禁忌の子』は、本格ミステリの知的興趣と、社会派ドラマの倫理的・感情的な重みを完璧に融合させた、画期的な作品です。著者は本作を通じて、単に技巧に優れたミステリ作家としてだけでなく、現代日本文学における重要な新しい声としての地位を確立しました。
彼女はミステリというジャンルをメスとして用い、現代社会が直面する最も複雑な道徳的問いを見事に解剖してみせたのです。タイトルに込められた二重の意味は、物語全体を貫くテーマである医療倫理の境界や人間の欲望を象徴的に表現しています。
生殖医療が技術的に可能になったとしても、それが果たして倫理的に正しい選択なのか、そしてその選択が未来にどのような影響を及ぼすのか。このタイトルは、読者自身の価値観や倫理観を見つめ直すきっかけを与えます。生まれてくる命にどう向き合っていくかをゆっくり考える必要があると、本作は問いかけているのです。

#NR書評猫749 山口 未桜著「禁忌の子」

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