毎晩の通勤電車で読書をするあなた。週末にカフェで文庫本を開くあなた。そんな読書の時間に、ふと疑問がよぎったことはありませんか。「このまま読むだけでいいのだろうか」「読んだ内容を仕事に活かせていないのではないか」「インプットばかりでアウトプットしない自分は、何か間違っているのではないか」。野崎まど著『小説』は、そんな読書家の心に巣食う後ろめたさに、鮮やかな答えを提示してくれる一冊です。本作は単なる物語ではなく、読むという行為そのものへの深遠な肯定であり、すべての読者への祝福なのです。
読むという行為が持つ宇宙的な意味
野崎まどが本作で展開する議論は、驚くほど壮大です。彼は読書という営みを、宇宙の創生から生命の進化に至るまでの根源的なパターンの中に位置づけます。その理論によれば、宇宙のあらゆる存在は一つの共通原理に従っているというのです。それは、外部の物質や情報を取り込み、外部とは区別された内側を創造し、豊かにしていくというプロセスです。
ビッグバンから始まった宇宙は、エネルギーを集めて物質を作り、物質を集めて星を作り、星の中で複雑な元素を生み出しました。そして地球上では、単純な分子が組み合わさって生命が誕生し、生命は進化の過程で複雑な神経系を獲得し、やがて意識を持つに至ったのです。この一連の流れは、すべて内側を増やし、複雑性を高めていく方向性を持っています。
人間の読書という行為は、この宇宙的原理の最も洗練された表現形態だと野崎は説きます。私たちは本というメディアを通じて外部の情報や意味を吸収し、自らの内側、すなわち精神や魂を豊かにしているのです。読書は単なる趣味や娯楽ではなく、生命が本質的に持つ成長への欲求の発現なのです。
虚構こそが人類を無限へと導く
本作のもう一つの重要な主張は、虚構の優位性です。現実世界には物理的な限界があります。私たちが実際に訪れることのできる場所、出会える人々、経験できる出来事には、時間的にも空間的にも制約があります。しかし、虚構の世界には限界がありません。小説の中では、過去にも未来にも、地球の果てにも宇宙の彼方にも、自由に旅することができるのです。
野崎は、人類が虚構を発明したのは、現実世界の物理的限界を克服し、無限の内面的成長を可能にするためだったと論じます。そして、純粋に抽象的な記号である文字のみで構築される小説は、この虚構の最も純粋な形態だというのです。映像にも音楽にも頼らず、ただ文字という記号の連なりだけで世界を創造する小説は、想像力を最大限に活用する営みなのです。
この視点は、日々の業務に追われるあなたにとって、特別な意味を持つかもしれません。職場では効率性や実用性が求められ、家庭では責任や義務が待っています。そんな現実に縛られた日常の中で、小説の世界に没入する時間は、あなたの内面を無限に広げてくれる貴重な機会なのです。
読むことは純粋な自己贈与である
本作が到達する最も重要な結論は、読書が外部的な正当化を一切必要としないという主張です。読書は、作家になるための準備でもなければ、仕事の役に立つ知識を得るための手段でもありません。意味を吸収し、自己を豊かにするという行為そのものが報酬であり、それは一種の純粋な自己贈与に他ならないのです。
この考え方は、ビジネス書や自己啓発本を読むことに慣れたあなたには、やや違和感があるかもしれません。私たちはつい、読書に実用的な価値を求めてしまいます。この本を読めばプレゼンテーションが上手になる、この本を読めば部下とのコミュニケーションが改善する。そんな目的を持って本を手に取ることが多いのではないでしょうか。
しかし、野崎が本作で提示するのは、もっと根源的な読書の価値です。読書それ自体が目的であり、報酬であり、自分から自分への贈り物なのだと。あなたが週末に読む小説は、月曜日の会議で役に立たなくても構わないのです。その物語があなたの内側を豊かにし、あなたという人間の複雑性を高めたなら、それだけで十分に価値があるのですから。
友情という形で結実する読書の力
本作の物語は、生粋の読書家である内海集司と、読書家から作家へと変貌を遂げる外崎真という二人の友人の生涯にわたる旅路を描いています。二人の関係性は、読書という営みが持つもう一つの側面を照らし出します。それは、読書が孤独な行為でありながら、同時に深い繋がりを生み出す力を持つということです。
内海と外崎は、本への共通の愛を通じて育まれた友情で結ばれています。少年時代、二人は謎めいた小説家髭先生が住むモジャ屋敷で本を共有し、物語について語り合いました。大人になり、それぞれの道を歩むようになっても、本を通じた絆は消えることはありませんでした。
物語のクライマックスで明らかになるのは、髭先生の正体です。彼は未来の外崎真その人であり、ただ一人の友人である内海に、本作の核心哲学を届けるという唯一の目的のために、長い人生をかけてきたのです。この暴露は、物語全体を、友情と文学的献身の深遠な行為として再定義します。
あなたも職場で、かつて学生時代に本について語り合った友人を思い出すかもしれません。あるいは、家族との会話が減ってしまった今、共通の本を読むことで新たな対話の糸口が見つかるかもしれません。読書は孤独な営みですが、同時に人と人を繋ぐ架け橋にもなり得るのです。
読者こそが物語の真の主人公
本作は、その宣伝文句にあるように祝福の物語として位置づけられています。この枠組みは極めて重要です。本書の究極的な目的は、単に物語を語ることだけでなく、読むという行為そのものに深遠な肯定を与えることにあるのです。それは、すべての読者を真の主人公へと昇華させる試みなのです。
内海が物語を通じて問い続けるのは、読むだけじゃ駄目なのかという問いです。書かなければならないのか、何か行動に移さなければならないのか、読書という受動的な行為には価値がないのか。この問いは、多くの読書家が心の奥底で抱えている不安でもあります。
野崎はこの問いに対して、明確な答えを提示します。読むだけでいい。読書それ自体が、宇宙的な営みであり、生命の本質的な活動であり、あなた自身を豊かにする贈り物なのだと。物語のクライマックスは物理的な勝利ではなく、知的な贈り物です。髭先生が人生を捧げたのは、完璧な読者である友人内海に、その存在理由と祝福を与える哲学を明確に言語化するためだったのです。
あなたの読書時間に意味を与える一冊
通勤電車の中で文庫本を開くとき、休日の午後にソファで小説を読むとき、あなたはもう後ろめたさを感じる必要はありません。その時間は、仕事の役に立たなくても、誰かに評価されなくても、それ自体が価値ある営みなのです。野崎まどの『小説』は、すべての読書家に対する壮大な肯定であり、読むという行為への深い敬意の表現なのです。
本書は、読書という行為そのものへのラブレターです。それは読者を単なる受動的な消費者から宇宙的な物語の英雄へと引き上げ、読むという単純な行為が深遠で意味があり、自己正当化される営みであると主張します。文学に費やされた人生への究極の肯定なのです。
#NR書評猫750 野崎 まど著「小説」

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