「仕事とは何か」「知識とは何か」「悪とは何か」――これまで常人には思いもよらない角度から根源的な問いを投げかけてきた作家がいます。野崎まどです。彼の作品は単なるエンターテインメントではなく、毎回ひとつの哲学的命題に真正面から挑む知的格闘技のような体験を読者に提供してきました。そして2024年、野崎まどは自らの創作活動の基盤そのものを問う作品を世に送り出しました。それが『小説』です。本作は彼のキャリアにおける最も個人的で、最も野心的な哲学的探求の集大成と言えるでしょう。
野崎まどという哲学者作家の軌跡
野崎まどは2009年、『[映]アムリタ』で電撃小説大賞の一部門として新設された「メディアワークス文庫賞」の最初の受賞者としてデビューしました。以来、彼は一貫してジャンルフィクションという形式を用いながら、人間存在の根本に関わる問いを追求し続けてきました。
『知る』ことの究極的な本質を問うた『know』、善と悪と自殺の本質に迫った『バビロン』、そして『仕事』の根源的な意味を探った『タイタン』――これらの作品群を見れば、野崎まどが単なる小説家ではなく、物語という手段を用いて哲学的問題に取り組む思想家であることが分かります。『タイタン』では仕事を「影響を与えること、そしてその影響を観測すること」と定義し、AIが全ての労働を担う未来社会で人間の働く意味を問いました。
こうした野崎作品に共通するのは、誰もが当たり前に思っている概念を根底から問い直す姿勢です。『タイタン』で「仕事が存在しない世界」を描いた野崎は、読者に「そもそも『仕事』という概念そのもの」の意味を考えさせました。このように常に思考の限界に挑戦してきた作家が、次に向き合ったのは「小説を読む意味とは何か」という問いでした。
内面への転回――自らの媒体を問う
野崎まどのキャリアには明確な転換点があります。『タイタン』や『バビロン』のような作品は外部の社会的概念を探求していましたが、『小説』では彼は分析のレンズを内側に向けました。自らの職業人生を定義してきた媒体と行為そのものを問いただすという、深遠な内面への転回です。
この転回は野崎の最もメタテクスチュアルで個人的な哲学的プロジェクトと言えます。『タイタン』が仕事を「影響を与えること、そしてその影響を観測すること」と定義したのに対し、『小説』は読書を「物語という影響を観測し、内的な変化を生み出すこと」と定義しています。これは過去作品と直接対話し、そのテーマを洗練させ、内面化する試みなのです。
野崎は『小説』において、なぜ自分が小説を書くのか、なぜ読者は小説を読むのかという、作家としての存在意義そのものに向き合いました。これは単なる自己言及的な遊びではありません。『タイタン』で人類が労働から解放された世界を描いた作家が、次に自らの「労働」である小説執筆の意味を問うのは自然な流れです。
哲学的探求の一貫性と深化
『小説』で展開される哲学は、宇宙の創生から生命の進化に至る壮大な理論です。外崎(あるいは髭先生)の口を通して語られるのは、すべての存在が外部の物質や情報を取り込み、「内側」を創造し豊かにしていくというプロセスです。そして読書こそが、この生物学的要請の最も洗練された表現形態だと本作は主張します。
この理論は決して真空から生まれたものではありません。著者である野崎まど自身が影響を受けたピエール・テイヤール・ド・シャルダンのような思想家の複雑化の理論と共鳴しています。宇宙のエントロピー増大の法則に抗い、より高次の複雑性と意識へと向かう生命進化の目的論的な見方は、本作が提示する哲学の直接的な先行モデルです。
野崎まどは極めて分析的な作家であり、こうした理論的背景を意識的に作品に組み込んでいます。『小説』における壮大な宇宙論は、単なる思いつきではなく、長年の思索と読書の蓄積から生まれたものなのです。
過去作品との対話――一貫したテーマの探求
野崎まど作品を横断して見ると、『小説』がいかに彼のキャリアの集大成であるかが分かります。各作品は独立した物語でありながら、実は深いレベルで繋がっています。
『[映]アムリタ』では映像メディアの力と危険性を、『know』では知識と情報の本質を、『バビロン』では善悪の概念を、『タイタン』では労働の意味を問いました。これらすべてに共通するのは「人間とは何か」という根源的な問いです。そして『小説』では、これまで探求してきたテーマを統合する形で、人間の営みとしての「物語」そのものに焦点を当てました。
文体の面でも進化が見られます。初期作品『[映]アムリタ』に見られた機知に富み、ライトノベル的とも言える軽快な会話劇と、『小説』のより抑制され、思索的で哲学的に濃密な散文とは対照的です。これはあからさまなエンターテインメントから、より文学的で内省的な様式へと移行する文体の成熟を反映しています。
読者への挑戦状としての『小説』
『小説』は、野崎まどがこれまで培ってきた哲学的思考の全てを注ぎ込んだ作品です。本作で彼は、自らの分析のレンズを自らの創作活動の基盤に向けるという、最も勇気のいる挑戦をしました。それは作家としての自己正当化であると同時に、読者という存在への最大限の敬意でもあります。
髭先生(外崎)が人生を捧げたのは名声を得るためではなく、完璧な読者である友人・内海に、その存在理由と祝福を与える哲学を明確に言語化するためでした。これは野崎まど自身が読者に向けて行っているのと同じ行為です。小説を読むことの意味を問い、その答えを提示することで、読者の読書体験そのものに祝福を与えようとしているのです。
一部の批評家は、本作のテーゼを「片手落ちに手前味噌」と評しました。小説家によって、小説愛好家のために、小説の重要性について書かれた「身内向けの、壮大だがケチな大ボラ」だと。しかしこの批判すら、野崎が意図的に誘発した可能性があります。極めて分析的な作家である彼が、こうした反論の可能性に気づいていなかったとは考えにくいからです。
哲学者としての野崎まどの到達点
野崎まどは『小説』で、自らのキャリアを通じた執念の集大成を提示しました。一人の作家が一貫して問い続けてきた「人間存在の意味」という命題の、現時点での最終回答がここにあります。
本作は間違いなく彼の最も個人的で、最も野心的な作品です。そしてそれは同時に、現代日本で最も知的に大胆な語り手の一人としての評価を確固たるものにする作品でもあります。野崎まどという哲学者作家は、『小説』という形で自らの思索の到達点を示したのです。
読者として私たちは、一人の哲学者が生涯をかけて問い続けてきた問いの集大成を目撃する特権を得ました。『小説』を読むことは、単に一冊の本を読む以上の体験です。それは一人の思想家の知的旅路の終着点に立ち会うことであり、同時に自分自身の読書という行為の意味を問い直す機会でもあるのです。
#NR書評猫750 野崎 まど著「小説」

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