宮内庁が管理する大阪府羽曳野市の巨大前方後円墳「誉田御廟山古墳」で、90年前に前方部から巨大な石室が発見されていたことが明らかになりました。この発見は古墳時代の天皇陵における重要な調査事例であり、従来の定説を覆す可能性を秘めています。今回はこの歴史的発見について詳しく解説します。
驚きの発見!応神天皇陵の前方部から巨大石室
宮内庁が応神天皇陵として管理する大阪府羽曳野市の前方後円墳・誉田御廟山古墳(5世紀前半、全長425m)で、室戸台風(1934年)の翌年に前方部から巨大な竪穴式石室が見つかっていたことが明らかになりました。この事実は、旧宮内省の未公開報告書などから判明したもので、宮内庁関係者によると、古墳時代の天皇陵で埋葬施設が公式に調査された唯一の事例だといいます。
この発見の重要性は計り知れません。従来、前方後円墳の埋葬施設は後円部に造られ、前方部は祭祀の場などと考えられてきました。しかし今回の発見により、前方部にも血縁者や政権を支えた有力者らを葬った可能性が浮上してきたのです。これは大型の前方後円墳が王1人のための墓ではないことを示す証拠となり、謎の多い天皇陵の実態を知る貴重な手がかりとなります。
報告書「恵我藻伏岡陵前方部頂上発見石材調査報告」によれば、南北約7m、東西約4.5mの範囲で天井石の存在が確認されました。複数個を並べて石室にふたをしたとみられ、見つかったのはいずれかの天井石の西端とのことです。同時代の竪穴式石室としては最大級の規模ですが、石室の内部は確認されず埋め戻されました。また、石室の真上の土中からは、家形などの埴輪片も出土していたそうです。
巨大古墳「誉田御廟山古墳」の全貌とは
誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)は、大阪府羽曳野市誉田にある前方後円墳で、古市古墳群を構成する古墳の一つです。宮内庁により「惠我藻伏崗陵」として第15代応神天皇の陵に治定されています。
この古墳の規模は圧巻で、全長約425メートルという墳丘長は大仙陵古墳(大阪府堺市)に次ぐ全国第2位の大きさを誇ります。後円部直径は250メートル、後円部高さは35メートル、前方部幅は300メートル、前方部高さは36メートルという巨大さです。
古墳の周囲には二重の堀をめぐらしており、広大な内濠の外には幅約48メートルの中提があり、その外に築造当時は幅約35メートルのもう一重の濠(外濠)があった形跡が見られます。濠の水深は170~250センチメートルと、大仙陵古墳と比較してかなり深いのが特徴です。
興味深いことに、この巨大古墳は造営前から存在していた二ツ塚古墳を避けるように造られており、そのため周濠と内堤が歪んでいるという特徴があります。この事実は、当時の古墳造営における計画性や先行する古墳への敬意を示すものかもしれません。
竪穴式石室とは?古代人の埋葬技術を解明
今回発見された石室は「竪穴式石室」と呼ばれるものです。竪穴式石室とは、古墳時代前期から中期にかけてよく見られる古墳の埋葬施設です。
発掘過程で竪穴の石室のように検出することからその名がついたとされています。基本構造は、割竹形木棺を墓壙の底に安置したあと、棺に接する部分に板状の石を重ねていき、棺と板石の間に角礫を隙間なく詰め込んで、最後に大きな蓋石をかぶせるというものです。
木棺を置く場所にあらかじめ粘土を敷いたり、墓壙の床全面に砂利を敷いたりするケースもあります。また、墓壙内に浸透してきた雨水を排水するための暗渠排水施設を設けている石室もあるそうです。積み上げられる石の量は膨大で、総量数トンに達することもあります。
このような石室・石槨を構築する理由としては、密閉と防湿に配慮する意図や、首長の亡骸を棺に収め保存するとともに外敵から護るという意味、さらに石で覆い固め封じ込める意味があったのではないかと推測されています。
前方後円墳における埋葬の常識を覆す発見
前方後円墳は、古墳の形式の一つで、円形の主丘(後円部)に方形の突出部(前方部)が接続する形式です。双丘の鍵穴形をなし、主に日本列島で3世紀後期から7世紀初頭頃にかけて築造されました。
従来の研究では、後円部が埋葬のための墳丘で主丘であり、前方部は弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達したという説や、葬列が後円部に至る墓道であったとする説があります。
しかし、今回の発見は、時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになったという見解を裏付けるものと言えるでしょう。このことは、大型の前方後円墳が一人の王のための墓ではなく、複数の人物(おそらく血縁者や政権を支えた有力者)のための墓であった可能性を示唆しています。
最古の前方後円墳は、前方部の形状が撥(バチ)形になっており、前方部の前面幅が後円部の直径に匹敵するほど開いているのが特徴です。高さも後円部の方が高くなっています。時代が下るにつれて前方部は巨大化の一途をたどり、幅が後円部の直径の1.5倍、中には2倍に達するものもあり、高さも前方部のほうが高いものが多くなります。
室戸台風が引き起こした偶然の発見
この巨大石室の発見のきっかけとなったのは、1934年(昭和9年)9月21日に高知県室戸岬付近に上陸し、京阪神地方を中心として甚大な被害をもたらした室戸台風です。この台風は記録的な最低気圧・最大瞬間風速を観測し、高潮被害や強風による建物の倒壊被害によって約3,000人の死者・行方不明者を出した大災害でした。
室戸台風上陸時の中心気圧は911.6ヘクトパスカルであり、日本本土に上陸した台風の中で観測史上最も上陸時の中心気圧が低い台風として記録されています。この強大な台風が古墳の一部を損壊させたことで、翌年に石室が発見されるという皮肉な結果となりました。
自然災害が文化財に被害をもたらすことは珍しくありませんが、今回のケースでは災害が新たな発見につながったという点で特筆すべき事例と言えるでしょう。
古墳研究に新たな光を投げかける発見の意義
今回の発見は、古墳時代の王権構造や埋葬習慣に関する従来の理解に再考を促すものです。古墳研究において、天皇陵とされる古墳の調査はきわめて限定的で、宮内庁による管理下にあるため通常は発掘調査などの学術調査が困難です。
陵墓に治定されると、宮内庁の管理下におかれ、開発行為が禁止されます。また、原則として、中に入ることも、発掘を行うこともできません。このような制限があるため、今回のように90年前の調査記録が発見されたことは非常に貴重なケースと言えます。
この発見が示唆する「大型の前方後円墳が王1人のための墓ではない」という可能性は、古代日本の王権構造や社会組織に関する研究に新たな視点をもたらすことでしょう。特に、巨大古墳の造営には膨大な労働力と資材が必要であったことを考えると、その社会的意義や政治的背景についても再検討の必要性が生じます。
古墳時代の謎に迫る今後の展望
今回の発見は、古墳時代の埋葬習慣や王権構造に関する従来の理解を見直す契機となるでしょう。特に、前方部にも埋葬施設が存在するという事実は、前方後円墳の機能や意義について新たな解釈の可能性を開きます。
今後は、同様の特徴を持つ他の大型前方後円墳についても再検討が進む可能性があります。特に未発掘の天皇陵については、非破壊調査技術の発展により、埋葬施設の有無や構造を明らかにする試みがなされるかもしれません。
また、この発見は、旧宮内省や宮内庁が保有する未公開資料の重要性も浮き彫りにしました。今後、こうした資料の再検討によって、さらなる歴史的事実が明らかになる可能性も考えられます。
古墳時代は日本の国家形成期にあたり、その実態解明は日本の古代史理解において極めて重要です。今回の発見が、古代日本の謎に迫る新たな一歩となることを期待したいと思います。
参考情報
- Yahoo!ニュース「応神天皇陵の前方部に巨大石室 90年前発見、旧宮内省が調査」(https://news.yahoo.co.jp/articles/9c0978412932e24d665d23f5ef0fbcb4f4ef5a4b)
- Wikipedia「誉田御廟山古墳」(https://ja.wikipedia.org/wiki/誉田御廟山古墳)
- Wikipedia「竪穴式石室」(https://ja.wikipedia.org/wiki/竪穴式石室)

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