福沢諭吉と労咳(ろうがい):明治期の結核対策と知識人の関わり

歴史


福沢諭吉と労咳(肺結核)の関係は、明治期の日本が直面した深刻な医療課題と知識人の社会貢献を象徴する重要な歴史的事例です。かつて「国民病」とまで呼ばれた結核との闘いにおいて、福沢諭吉は重要な役割を果たしました。彼の医療への貢献と労咳に対する認識について詳しく見ていきましょう。

労咳(ろうがい)とは:日本における結核の歴史

労咳(ろうがい)とは、現在で言う肺結核の古い呼称です。日本では江戸時代から明治初期まで、肺結核はこの「労咳」あるいは「労瘵(ろうさい)」と呼ばれていました。「労」という漢字には「疲労困憊せるもの」や「慢性症にして身体の衰弱を招く病症」という意味があり、長期間にわたる衰弱と咳を特徴とするこの病気を表現するのにふさわしい名称でした。

労咳の記述は古くから見られ、平安時代の『枕草子』や『源氏物語』などにもその描写が確認できます。日本の文学作品にもたびたび登場し、明治31年(1898年)に『国民新聞』に連載された『不如帰』や堀辰雄の『風立ちぬ』、正岡子規の随筆『病牀六尺』などでも題材となりました。

労咳は結核菌による肺の感染症で、主に空気感染します。主な症状として、持続的な咳や痰、発熱、倦怠感があり、病状が進行すると食欲低下、体重減少、寝汗、血痰などが現れます。この病気はヨーロッパでも「白いペスト」と呼ばれ、世界的に恐れられていました。

福沢諭吉と北里柴三郎:結核研究への貢献

福沢諭吉は直接医学者ではありませんでしたが、日本の近代医学、特に結核対策の発展に大きく貢献しました。彼の最も重要な貢献の一つは、細菌学者・北里柴三郎の研究活動を支援したことでした。

土筆ヶ岡養生園の設立支援

明治26年(1893年)、福沢諭吉は北里柴三郎が結核専門の療養施設「土筆ヶ岡養生園」を東京の広尾(後に白金に移転)に開設する際、私財を提供しました。当時の価値で1万円(現代の価値で約1億円相当)という巨額を、福沢は森村市左衛門と共に出資しました。福沢は建築費の半分を負担し、この施設の経営が失敗するリスクを引き受けていました。

養生園はすぐに人気を集め、60余りの病室は常に満床となり、病棟は増築を重ねて180床にまで拡大しました。それでも患者を収容しきれないほどだったといいます。

研究環境の整備

福沢は北里の研究活動を支援するだけでなく、政府に働きかけて伝染病研究所を内務省の付属にし、北里が研究に専念できる環境を整えました。また、研究所の運営面でも門下生を派遣するなど実務的な支援を行いました。

福沢の北里に対する指導は時に厳しいものでした。養生園の牛乳瓶の汚れを見つけた際には、「大事をなそうとする者は、細事にこそ注意を払うべき」と厳しく叱責したエピソードが残っています。このような福沢の直言は北里の研究所運営の質を高めることにつながりました。

福沢諭吉の健康観と「病に媚びず」の精神

福沢諭吉は自身の健康についても独自の考えを持っていました。彼の自伝『福翁自伝』には「病に媚びず」という言葉が登場します。これは、福沢が三十六、七歳のころに大病を患った後、風邪を引きやすくなるなど体が弱くなった時期に到達した考え方でした。

福沢は「これまであまりにも病を大切にしすぎた、こっちから媚びるから病はだんだんつけあがる」と考え、治療ではなく養生のあり方を見直すことにしました。彼は少年時代の生活様式に戻り、手織り木綿の和装に改め、寒くてもストーブを焚かず、外で米つきや薪割りをするなどの生活を実践し、健康を取り戻したといいます。

労咳の悲劇と福沢諭吉の時代

福沢諭吉が生きた明治時代、労咳(結核)は「国民病」と呼ばれるほど広く蔓延していました。特に明治以降の産業発展と共に大流行し、工場や軍を通じて感染が拡大したとされています。

この時代、労咳に苦しんだ著名人は多く、高杉晋作、樋口一葉、中原中也、正岡子規、森鷗外などが肺結核で亡くなっています。新選組の沖田総司も労咳に苦しめられた著名人の一人です。

当時は結核の治療薬がなく、有効な治療法は1940年代にストレプトマイシンが発見されるまで待たなければなりませんでした。北里柴三郎が選択したツベルクリン療法も結局は結核を治すことができませんでした。

福沢諭吉の死因と晩年

福沢諭吉自身は労咳ではなく、脳溢血により亡くなりました。1899年(明治32年)9月26日に初めて脳溢血で倒れ、約1時間意識不明になりましたが回復しました。しかし、1901年(明治34年)1月25日に再び脳溢血で倒れ、意識が戻らないまま2月3日に三田山上にあった自邸で亡くなりました。享年68歳(満66歳)でした。

福沢諭吉の死因には、彼の生活習慣も影響したと考えられています。彼は大の酒好きで、「ビールは酒じゃない」と言いながら断酒中もビールを飲んでいました。また、もともとはタバコ嫌いでしたが、禁酒を試みた際に気を紛らわすために吸い始め、晩年まで喫煙を続けていました。このような生活習慣や、激しい居合の稽古(一日千本以上)も健康に影響を与えたと分析されています。

結論:福沢諭吉の医療貢献と現代への示唆

福沢諭吉は直接医学を実践することはなかったものの、北里柴三郎への支援を通じて日本の結核対策に大きく貢献しました。彼が支援した北里研究所は、結核をはじめとする伝染病の予防と治療に大いに寄与し、現在も多くの人命を救い続けています。

福沢の「病に媚びず」という姿勢は、病気に対して過剰に恐れるのではなく、生活様式を見直し、自らの力で健康を取り戻す積極的な態度を示しています。この考え方は、現代の健康観にも通じるものがあります。

福沢諭吉と労咳の歴史は、医学的知識と社会的支援の重要性、そして病気に対する適切な姿勢を私たちに教えてくれます。かつて国民病として恐れられた結核は、医学の進歩と社会の努力によって克服されてきました。しかし日本では2021年にようやく人口10万人あたり9.2と低まん延国入りを果たしたばかりであり、現在でも油断できない状況が続いています。福沢諭吉の貢献と精神は、現代の医療課題に取り組む上でも重要な示唆を与えてくれるでしょう。


参考サイト・参考情報

  1. ノジュール「伝染病との闘いに打ち勝った北里柴三郎と福沢諭吉の友情」
    伝染病との闘いに打ち勝った北里柴三郎と福沢諭吉の友情
    新型肺炎が猛威をふるい、世界中で多数の犠牲者を出している。 続きを読む →
  2. 北里大学北里研究所病院「病院沿革」
    病院沿革|北里大学北里研究所病院(東京都港区)
    北里大学北里研究所病院の沿革 北里柴三郎博士 北里大学北里研究所病院の設立は福澤諭吉翁の多大な支援により明治26年(1893年)に北里柴三郎博士によって開設された、日本初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」にまで遡
  3. note「【自伝から名言】福沢諭吉「病に媚びず」」
    【自伝から名言】福沢諭吉「病に媚びず」|田中畔道|ライター
    福沢諭吉の自伝『福翁自伝』に、「病に媚びず」という言葉が出てきます。 それは、福沢諭吉が二、三年続いた長患いを克服したときの体験談。 福沢は三十六、七のころ大病を患って以降、風邪を引きやすく治りも悪くなるなど、以前と比べあきらかに身体が軟弱...

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