労咳(ろうがい)の歴史 – 古代から現代に至る結核との闘い

歴史


労咳(ろうがい)という言葉を現代では耳にする機会は少なくなりましたが、かつて日本では結核を指す言葉として広く使われていました。この病は時代と共に様々な名で呼ばれ、多くの人々の命を奪った「国民病」でした。その歴史を紐解くことで、現代医療の進歩と公衆衛生の重要性を再認識することができます。

労咳の起源と名称の由来

労咳とは、現在でいうところの肺結核を指す言葉です。「労」は疲労困憊を意味し、「咳」とともに用いられることで、疲労によって起こる咳を伴う衰弱という意味合いを持っていました。漢方医学では、慢性症にして身体の衰弱を招く病症として「労」の字が用いられ、慢性の経過をとる結核性疾患を指しました。『日本大百科全書』によれば、「労咳」という名称は近世以降に一般化し、遺伝性の死に至る衰弱と考えられていた「伝屍(でんし)」や「伝屍労」という呼称から変化したものです。

英語では消耗を意味する「consumption」、漢方医学でも「消耗症」と呼ばれ、いずれも次第に衰弱していく症状を捉えた名称でした。ヨーロッパでは「白いペスト」という恐ろしい名前で知られ、確実に死を招く病として恐れられていました。

日本における労咳の歴史的変遷

古代日本の結核

日本で最古の結核の痕跡は、鳥取県青谷上寺地遺跡(2世紀後半)で発見された渡来系弥生人の骨に見られる脊椎カリエスです。この発見により、渡来人が結核菌を日本列島に持ち込んだことが判明しました。ミイラの発掘調査から、紀元前4000年ごろのエジプトでも結核が一般的な病気であったことが確認されており、人類と結核の関わりの深さが窺えます。

平安時代の「胸の病」

平安時代には結核は「胸の病」と呼ばれていました。清少納言の『枕草子』(996年頃成立)には「病は、胸、もののけ、あしのけ、はては、ただそこはかとなくて物食われぬ心地」という記述があり、胸の病の多くは結核だったとされています。『源氏物語』(1008年頃成立)では、紫の上が胸の病を患い、光源氏が悲しんでいる様子が描かれており、平安貴族の間でも結核が蔓延していたことが推察されます。

江戸時代の労咳

江戸時代になると、結核は「労咳」「骨蒸」「傳屍」「鬱症」「ぶらぶら病」など様々な呼称で呼ばれるようになりました。三田村鳶魚の記述によれば、慶長年間(1596-1615年)以降、結核は次第に増加していったとされています。患者は家族から隔離され、納屋や蔵に閉じ込められることもあり、差別や偏見が社会問題化していました。病因としては遺伝・伝染・心労・房労が考えられ、陰気な性格や性的欲求不満が関連づけられるなど、当時の医学的知識の限界が反映されていました。

明治以降の「国民病」としての労咳

日本における結核による死者のピークは、スペインかぜ流行下の1918年であり、このときの結核死亡率は人口10万人あたり257人という驚異的な数値に達しました。紡績工場で働く女工の結核死亡率は特に深刻で、1920年の福井県における15歳女性の死亡率は人口10万人あたり763人を記録しています。細井和喜蔵の『女工哀史』に描かれたように、過酷な労働環境と劣悪な衛生状態が感染拡大に拍車をかけました。

軍関係者も例外ではなく、1930年代の十五年戦争期には兵舎での集団生活を原因とする結核の蔓延が問題化しました。正岡子規や森鴎外といった文化人も結核に倒れ、当時の死亡率の高さを物語っています。

世界における結核の歴史

結核の歴史は人類の歴史と共に古く、結核菌は紀元前13000年頃に出現したと推定されています。17世紀中ごろのロンドンでは、死亡原因の5人に1人が結核であり、19世紀初頭には全世界で年間5000万人が罹患し700万人が死亡するという未曾有の流行を記録しました。

産業革命と結核の流行は密接な関係があり、18世紀後半のイギリスでは工場労働者の過密な居住環境が感染を拡大させました。この傾向は各国の工業化とともに全世界に広がり、結核は「文明病」とも称されるようになりました。

労咳に苦しんだ歴史上の人物たち

労咳に苦しめられた歴史上の人物は数多く、高杉晋作、樋口一葉、中原中也、正岡子規、森鷗外などが肺結核で亡くなっています。新選組の沖田総司は池田屋事件の際に喀血したエピソードで知られますが、近年の研究では熱中症との関連も指摘されています。才能ある若者の死は「肺病天才説」や「佳人薄命」としてロマンチックに語られる風潮さえ生み、結核が文化的表象としても影響力を及ぼしたことが窺えます。

結核文学と労咳の描写

国民病とも呼ばれた労咳は文学にも頻繁に登場し、明治31年(1898年)に発表された徳富蘆花の『不如帰』は結核を主題とした代表的作品です。堀辰雄の『風立ちぬ』(1936-1938年)ではサナトリウムでの療養生活が描かれ、正岡子規の『病牀六尺』(1901-1902年)は自らの闘病記録として文学史的価値を持ちます。平安時代の『枕草子』に始まる「結核文学」の系譜は、近代に至るまで日本文学の重要なテーマであり続けました。

結核対策の発展とBCGワクチン

BCGワクチンの開発と日本への導入

1921年、パスツール研究所のカルメットとゲランがウシ型結核菌を弱毒化したBCGワクチンの開発に成功しました。日本では1924年に北里研究所の志賀潔がフランスから菌株を持ち帰り、1938年から本格的な接種が開始されました。戦後1949年にBCG接種が法制化され、ツベルクリン反応検査と組み合わせた予防体制が確立されました。

抗結核薬の開発

治療の転機となったのは1944年のストレプトマイシン発見です。米国での臨床応用を皮切りに、1952年にはイソニアジド、1960年には多剤併用療法が確立され、結核は「治癒可能な病気」へと変貌を遂げました。日本では1951年に「結核予防法」が制定され、国立療養所の整備が進められました。

現代における結核の状況

1993年にWHOが「結核非常事態宣言」を発令し、日本でも1999年に厚生労働省が緊急事態宣言を出すなど、結核は依然として国際的な課題です。先進国では移民や難民を介した感染が増加しており、2019年時点で世界の罹患者数は1000万人、死亡者数は150万人に上ります。日本では高齢者の発症が8割を占めるなど、新たな感染パターンが出現しています。

結論

労咳と呼ばれた結核は、人類史とともに歩んできた最も古い感染症の一つです。平安貴族から産業労働者まで、あらゆる階層を襲ったこの病は、医学の進歩と公衆衛生の整備によってその脅威を大幅に減じました。しかし耐性菌の出現やグローバル化に伴う新たな感染経路の出現は、現代社会に続く課題を投げかけています。歴史から学ぶべき教訓は、感染症対策において科学と社会制度の両輪が不可欠であるという事実です。


参考情報

  1. 国立国会図書館「虎狼痢/コレラ 労咳/肺結核」
    虎狼痢/コレラ 労咳/肺結核 - 「本の万華鏡」第11回「はやり病あれこれ」
    6つの感染症に関する資料と歴史を紹介します。
  2. Wikipedia「結核の歴史」
    Wikipedia
    結核の歴史
  3. 医療あれこれ「日本における結核」
    医療の歴史(133)日本における結核 - 医療あれこれ
    吹田市千里山西の内科「末廣医院」のウェブサイトです。

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