「普通の恐妻家」が世界を変えなかった理由——伊坂幸太郎『モダンタイムス』が描く小さな目的と夫婦の勇気

「実家に忘れてきました。何を? 勇気を。」

物語の冒頭、渡辺拓海はこう言います。軽口のつもりで。

しかし物語の結末で、彼は別の言葉を言います。「勇気は彼女が持っている。俺が無くしたりしないように」と。「彼女」とは、妻・佳代子のことです。

伊坂幸太郎の『モダンタイムス』は、監視社会ディストピアを描きながら、最終的には「夫婦の物語」として着地します。世界を変えることはできなかった。独裁者を倒すこともできなかった。しかしたった一人の大切な人のそばで、「勇気」を守り続けた男の物語――これが本書の正体です。

本記事では、本書の主人公・渡辺拓海という「普通の男」の物語を中心に、伊坂幸太郎が一貫して描き続ける「小さな目的」と「夫婦愛」というヒューマニズムを論じます。

Amazon.co.jp: モダンタイムス新装版 上下合本版 電子書籍: 伊坂幸太郎: Kindleストア
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1. 「普通のSE・恐妻家・浮気者」という主人公の設計

渡辺拓海は、徹底して「普通の男」です。

29歳のシステムエンジニア。恐妻家で、妻に頭が上がらない。職場の同僚と浮気をしているような、どこにでもいる小心者。ヒーローではありません。特別な才能もない。失踪した先輩の仕事を引き継いだだけで、得体の知れない陰謀に巻き込まれていく。

この「普通さ」こそが、本書の重要な設計です。

カフカ『審判』のヨーゼフ・Kを想起させます。Kも平凡な銀行員でした。ある朝突然、理由も分からぬまま逮捕され、日常を送りながら不条理な裁判に翻弄され、最後まで罪状を知らされない。渡辺も同じように、なぜ自分が拷問されるのか、なぜ周囲が不幸に巻き込まれるのか分からぬまま、「仕組み」に追い詰められます。

「平凡な個人 vs 不条理な巨大システム」――これは20世紀文学の王道テーマです。しかしカフカは読者を冷たい絶望に突き落としました。一方、伊坂は同じ構図を使いながら、まったく異なる場所に物語を着地させます。

伊坂作品では、普通の男が「家族を守る」という小さな目的を持つことで、巨大なシステムとの闘争に意味を見出します。世界は変わらないかもしれない。しかし目の前の大切な人を守ることはできる――これが伊坂ヒューマニズムの核心です。

2. 「恐妻」から「強妻」へ――佳代子というキャラクターの反転

物語は、驚くべき場面から始まります。

渡辺が妻・佳代子に雇われた髭の男・岡本猛に「勇気はあるか」と脅され、浮気を疑われて拷問されかける――というコメディ的な場面です。「妻に浮気調査を依頼された私立探偵に骨を折られかける」という理不尽を、軽妙な会話のリズムでさらりと「とんとん進める」。

この笑いが、本書のディストピアを『1984年』のような重苦しい断絶から守っています。重いテーマと軽い語り口の調和――これが伊坂幸太郎の真骨頂です。

当初は「夫の浮気を疑って拷問者を雇う異常な恐妻」として戯画的に描かれていた佳代子は、物語が進むにつれてどんどん魅力的になります。

物語の後半、彼女はホテルで敵の緒方たちを相手に大立ち回りを演じます。格闘技ばりの強さで、状況を打開する。多くの読者が「最もスカッとした場面」として挙げるのが、この佳代子の活躍です。

「恐妻」から「強妻」へ――この反転が、本書の「夫婦愛」の描き方の妙です。最初は「怖い妻」として描かれ、やがて「勇気を持っている人」として立ち現れる。冒頭で「勇気は実家に忘れてきた」と嘯いた渡辺が、結末で「勇気は彼女が持っている」と言う理由がここにあります。

怖い妻が「勇気」の在処だった――この反転が本書の夫婦愛の核心

あるAmazonレビュアーはこの点を「SF的恐怖を超えた、夫婦にとって最も心温まる傑作」と評しています。監視社会ディストピアという外枠の中に、温かな夫婦の物語が入っている――これが本書の二重構造の正体です。

3. 「小さな目的のために」――伊坂ヒューマニズムの核心

佳代子は渡辺にこう諭します。

「人間は大きな目的のために生きているんじゃないの。小さな目的のために行動したら?」

この台詞が、本書のテーマを凝縮しています。世界を変えるという大きな目的ではなく、目の前の大切な人を守るという小さな目的――これが伊坂の答えです。

本書の舞台となる世界では、個人がシステムを変えることは事実上不可能です。誰が悪いのか分からない。何のためにシステムが動いているのか分からない。「考えろ」と叫んでも、世界は変わらない。

そういう世界で生きていくために何が必要か。「大きな目的」を手放し、「小さな目的」を守り続けること――これが本書の実践的な答えです。

渡辺は世界を救いません。陰謀を暴き切ることもありません。しかし「妻と一緒に、ハンバーガーを食べながら笑う」という日常を守ることはできます。「困っている人がいたら声をかける」という小さな善意を積み重ねることはできます。

作中の台詞「君と一緒に食べられるなら、どんなものを御馳走になる」――これが本書の最後に残る言葉の一つです。システムに翻弄されながら、それでも「一緒に食べること」の喜びを守り続けること。これが伊坂の示す「勇気」です。

4. 「主人公は事件の真っ只中にいない」という批判への反論

本書への最大の批判の一つは「主人公が事件の真っ只中にいない」というものです。

確かに、渡辺は能動的なヒーローではありません。陰謀を解き明かす探偵でも、敵を倒す戦士でもない。事件の全貌を理解しないまま、受動的に翻弄されるだけ――という読み方もできます。

しかしこれは欠点ではなく、主題の必然的表現です。

「普通の個人はシステムの中で受動的にならざるをえない」――これが本書の核心的な認識です。私たち一般人は、自分を包むシステムの全体像を知ることができません。なぜ自分の個人情報が使われているのか、なぜ特定の広告が表示されるのか、なぜある情報が検索上位に来るのか――何一つ正確には分からない。ただ「何かに翻弄されている」という感覚だけがある。

渡辺の「事件の真っ只中にいない」状況は、この私たちの実感と完全に一致します。だから読者は、渡辺に「他人事」ではなく「自分のこと」として感情移入できるのです。

SE経験を持つ著者だからこそ描ける「発注元不明の案件」「いつの間にか別の目的に転用された技術」「無茶な納期」――これらはIT業界の現実と地続きです。本書を「IT業界で働く人の話」として読む人も多く、「職場の話と重なりすぎて怖い」という感想が複数出るのはこのためです。

5. 赤信号のエピソード――「無条件にルールに従うのはロボットと同じ」

本書の「日常の倫理」を最もシンプルに示す場面が、赤信号のエピソードです。

非常時に誰もいない赤信号を守る夫に、佳代子が諭します。「大事なルールほど法律になっていない。無条件にルールに従うのはロボットと同じ」と。

この台詞は、本書全体のテーマを夫婦の日常会話に落とし込んでいます。システムが定めたルールに従うことが「正しい」とは限らない。自分で考えて、何が本当に大事かを判断することが必要――これは『魔王』の「考えろ」と同じメッセージですが、国家規模の政治的問いではなく、誰もいない交差点での赤信号という日常のレベルで提示されます。

日常の小さな判断の積み重ねが、「分業による良心の欠如」を防ぐ。一人ひとりが「これは本当に正しいか」と考え続けることが、システムの暴走を止める唯一の力――本書はそう語っています。

大きなシステムを変えることはできない。しかし自分の前の赤信号で「考えること」をやめない――これが、本書が最後に読者に届けたいことです。

6. 「世界は変わらない」――それでも生きるための伊坂流の答え

本書の結末は、明快ではありません。陰謀の全貌が解明されるわけでもなく、システムが打倒されるわけでもない。著者はあとがきで「事件の真相については何でも良い」と書いています。

では何が残るのか。「勇気は彼女が持っている。俺が無くしたりしないように」という渡辺の決意です。

世界は変わらない。システムは続く。しかし渡辺は「勇気を持っている人のそばにいる」という小さな役割を見つけました。妻の勇気を守ること。彼女と共に食べること。困っている人に声をかけること――これが渡辺の「小さな目的」です。

チャップリン映画『ライムライト』の台詞が作中で引かれます――「人生を楽しむには、勇気と想像力とちょっぴりのお金があればいい」と。

本書の渡辺も、最後にはこの「ちょっぴりのお金」くらいの条件で生きることを選びます。世界を救う英雄の物語ではなく、「大切な人のそばで、小さな目的を守り続ける」人間の物語として、本書は終わります。

重く、長く、答えが出ない小説です。しかし読み終えた後に残る「小さな目的のために生きる」というメッセージは、ディストピアの時代に静かに、しかし確かに届きます。ぜひ手に取り、渡辺と佳代子の物語に同行してみてください。

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記事の要約

書誌情報
伊坂幸太郎『モダンタイムス』(2023年2月新装版刊行、講談社)のNR書評猫レビュー記事。累計120万部突破(2023年2月時点)。伊坂最長作品(文庫上下計832ページ)。著者のSE(システムエンジニア)経験が主人公の造形に直結している。

本書の核心
主人公・渡辺拓海の「普通のSE・恐妻家・浮気者」という徹底した「普通さ」が「平凡な個人 vs 不条理なシステム」というカフカ的構造を現代に移植する設計。「恐妻」から「強妻・勇気の在処」へと反転する佳代子の造形が本書の夫婦愛の核心。「人間は大きな目的のためではなく、小さな目的のために行動する」という佳代子の台詞が伊坂ヒューマニズムを凝縮する。「勇気は実家に忘れてきました(冒頭)」→「勇気は彼女が持っている、俺が無くしたりしないように(結末)」という冒頭と結末の対の台詞が物語全体を枠付ける。「主人公は事件の真っ只中にいない」という批判が「普通の個人はシステムの全体像を知れない」という主題の必然的表現であることの再定義。赤信号のエピソードが示す「無条件のルール遵守はロボットと同じ」という日常レベルの倫理。

本書評の概要
「普通のSE・恐妻家」という主人公設計とカフカ的構造の接続を解説する。「恐妻から強妻へ」という佳代子の反転が「勇気の在処」として機能することを論じる。「小さな目的のために」という佳代子の台詞を伊坂ヒューマニズムの核心として示す。「主人公が事件の真っ只中にいない」批判を「主題の必然的表現」として再定義する。赤信号エピソードから「日常レベルの倫理」を論じる。「世界は変わらない、しかし小さな目的を守る」という結末のメッセージで締める。

NR書評猫1598_伊坂幸太郎_モダンタイムス新装版-上下合本版

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