震災で亡くなった人を悼む資格は自分にあるのか——いとうせいこう「想像ラジオ」が突きつける当事者でない者の倫理

「亡くなった人の声が聞こえるなんてのは、自分が役に立ちたいという身勝手な要求だ」

この言葉を発するのは、被災地ボランティアの帰りの車の中にいる人物・ナオです。溺れて海水を飲んで亡くなった人の苦しみは、生きている者には絶対に理解できない。聴こえると考えるのは思い上がりではないか――。

この「現実的な正論」は、多くの読者の心を刺します。なぜなら私たち自身も、同じ疑問を心のどこかで抱えているからです。「自分は当事者ではない。だから語る資格がない」――震災に限らず、遠い土地の災害、別の国の戦争、自分が経験していない誰かの苦しみに対して、私たちは常にこのためらいを持ちます。

いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社、2013年)は、第2章と第4章において、この問いに正面から向き合います。「それでも想像することをやめるか」――著者の答えは明確です。

Amazon.co.jp: 想像ラジオ (河出文庫 い 18-4) : いとう せいこう: 本
Amazon.co.jp: 想像ラジオ (河出文庫 い 18-4) : いとう せいこう: 本

1. 第2章の激論――「聴こえる」と言うことは傲慢か

小説の奇数章がDJアークの放送である一方、偶数章では被災地ボランティアの帰りの車中や、作家Sの場面が描かれます。

第2章の舞台は帰り道の車内。リーダー格のナオが「傷口に塩を塗る」ような問いを投げかけます。

「死んだ人の声が聞こえる、なんて話、みんないつも言うじゃないですか。でもそれって、自分が役に立ちたいという身勝手な要求なんじゃないか。亡くなった人、亡くした人の苦しみなんて絶対わからない。それをわかろうとするのは傲慢だ」

この言葉の重みを、あなたはどう受け取りますか。

「聴こえる」と言うことは傲慢か――この問いに「正しい答え」はあるのか

ナオの指摘には確かな正しさがあります。溺れて亡くなった人の恐怖と苦しみは、その当事者にしかわからない。「わかる」と言うことは、その苦しみを矮小化することになりかねない。これは文化人類学でいう「代弁の暴力」の問題でもあります。

しかし車中の別の人物はこう切り返します。

「だけどだよ、心の奥でならどうか。亡くなった人の悔しさや恐ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいもんになってしまうんじゃないか」

どちらが正しいのか。本書はすぐには答えを出しません。

2. 著者自身の「絶対的な断絶」――被災していない者が書くことへの問い

この問いは、著者いとう自身のものでもあります。

いとうは震災後、被災地(特に福島)を繰り返し訪れ、住民の寄り合いに参加し、被災者の話に耳を傾ける活動をしていました。しかし同時に「自分は被災したわけじゃない。絶対的な断絶がある」という意識も持ち続けました。

その意識の中で、著者はこう語っています。「でも世界を自分ができる限り真正面から引き受けて、そのかわり全部想像しますからね、という姿勢でした」と。

「絶対的な断絶」を認識しつつ、それでも全部想像しようとする――著者の誓いが作品の倫理を支える

被災していない者が被災者の声を語ること。亡くなっていない者が死者の声を代弁すること。この困難を著者は正直に引き受けた上で、「断絶を認識したまま想像し続ける」という方法を選びました。

著者は本書を「震災を知らない世代が『私たちは無関係だから語る資格がない』と思わないために」書いたとも語っています。当事者でないことを理由に黙ることが、最も罪深い沈黙になりかねないと感じた――それが本書執筆の動機の一つです。

3. 第4章のクライマックス――「開き直り」の論理と死者と共に生きること

第4章は本書のクライマックスです。「たとえ声が聴こえなくても想像を続けるか」という問いに対して、登場人物が「ああ、開き直るよ。聴こえなくてもだ」と答える場面があります。

この「開き直り」という言葉は、意図的に選ばれたと思います。「確信」でも「信仰」でも「論理的証明」でもなく、「開き直り」。それは誠実な認識です。聴こえることは証明できない。しかしだからといって、想像することをやめる理由にはならない――という、証明できないことを認めた上での選択。

「聴こえなくてもだ」という開き直りは、証明できない倫理的選択への誠実な向き合い方だ

そしてさらに重要な言葉が続きます。

「亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ」

「死者と共にこの国を作り直していく」――これは政治的なスローガンではなく、生者の在り方についての哲学的な提案です。死者を忘れて前に進むのではなく、死者を抱えたまま前に進む。両者を切り離さない。

4. 「想像力から悲しみへ」――終盤の決定的な転回

本書の中でも最も重要な場面の一つが、終盤でDJアークが自分の言葉を言い直す部分です。

「今まで僕が想像力こそが電波と言ってきたのは不正確で、本当は悲しみが電波なのかもしれない」

「想像力=電波」という本書の定義が、「悲しみ=電波」へと読み替えられます。

この転回の意味を考えると、本書の核心がより鮮明に見えてきます。「想像力」は技術的・能力的な言葉です。訓練や努力で磨けるもの。しかし「悲しみ」は感情です。失ったものへの哀惜。亡くなった人への愛着。これは磨くものではなく、感じるものです。

「想像力が電波」から「悲しみが電波」への転回――他者への想像の根底にあるのは技術ではなく感情だ

著者はこの転回を「悲愛(悲しみ愛すること)」という言葉で説明することもあります。悲しいから愛する、愛しているから悲しい――この二つは分かちがたく結びついている、と。

「当事者でない者が死者を悼む資格はあるのか」という問いへの、本書の最終的な答えは、この転回の中に宿っています。資格の根拠は「当事者性」ではなく「悲しみ」にある。悲しんでいるなら、そこに想像の電波は届く――という答えです。

5. 「当事者性」の問いの現代的普遍性――震災を超えた射程

この問いは、東日本大震災だけに当てはまるものではありません。

2024年以降の世界を見ると、ウクライナとガザで続く戦争、能登半島地震、各地の自然災害――私たちは常に「遠い苦しみ」の前に立たされます。そしてその度に「自分には語る資格があるのか」というためらいが生まれます。

「SNSに投稿することは偽善ではないか」「現地に行けない自分が支援を呼びかけることは的外れではないか」――これらのためらいの根底には、本書の第2章でナオが発した問いと同じ構造があります。

「語る資格がない」というためらいが、結果的に最も都合のよい沈黙を生むことがある

著者いとうは、このためらいに対して明確な立場を取ります。「私は無関係だから語る資格がない、と思わないでほしい。想像してほしい。悲しんでほしい」と。

さらに著者は国境なき医師団の活動現場を訪れ取材したルポ(『「国境なき医師団」を見に行く』)でも、同じ姿勢を貫いています。「当事者でない自分が現場をどう引き受け、伝えるか」という問いを、フィクションではなくノンフィクションとして実践した作品です。本書がフィクションで提起した「想像することの倫理」を、著者はその後の実際の行動で体現し続けています。

6. 「想像すれば絶対に聴こえるはずだ」――この言葉が2013年に生まれた意味

本書が発表された2013年は、震災から2年が経過した時期でした。

メディアの関心は薄れ始め、「復興」という言葉が「過去のこと」として語られ始めていた時期でもあります。そんな中で著者は、「想像力まで押し潰されてしまったら自分たちには何が残るんだ」という強い気持ちで本書を書いたと語っています。

「想像すれば絶対に聴こえるはずだ」――この確信は、忘却への抵抗として発せられた言葉だ

書評家・星野智幸はいとうのこの姿勢を評して「読めば涙が止まらない。傷つき暴力衝動に駆られたこの社会に、必要な小説」と書きました。また「この言葉が、震災後の文学そのものだったと思う」とも。

「想像すれば聴こえるはずだ」という命題は、証明できません。しかし、証明できないからこそ価値がある言葉、というものが存在します。

大切な人を失った経験のある方、遠い土地の苦しみの前で何もできないという無力感を抱えている方――本書を手に取ってみてください。DJアークの軽快な語りが届いた先に、「それでも想像することをやめない」という選択の意味が、静かに残るはずです。

Amazon.co.jp: 想像ラジオ (河出文庫 い 18-4) : いとう せいこう: 本
Amazon.co.jp: 想像ラジオ (河出文庫 い 18-4) : いとう せいこう: 本

記事の要約

書誌情報
いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社、2013年)のNR書評猫レビュー記事。第35回野間文芸新人賞・第2回静岡書店大賞受賞、キノベス!2014年第1位、30万部超のベストセラー。著者16年の小説沈黙を破った震災文学。第2章・第4章を中心に「当事者でない者の倫理」という本書の核心的主題を読み解いた書評。

本書の核心
「亡くなった人の声が聞こえるなんてのは身勝手な要求だ」というナオの正論と、それに対する「耳を傾けようとしないと行動がうすっぺらいものになる」という切り返しによる倫理的対立の構造。著者いとう自身が「絶対的な断絶(自分は被災していない)」を認識しつつ「全部想像しますからね」と誓った創作の倫理。「聴こえなくてもだ」という「開き直り」の論理が示す証明できない倫理的選択への誠実な向き合い方。「死者と共にこの国を作り直していく」という生者の在り方の哲学的提案。終盤の「想像力=電波」から「悲しみ=電波」への転回――他者への想像の根底は技術ではなく感情(悲愛)だという発見。「語る資格がない」というためらいが結果的に最も都合のよい沈黙を生むという問題提起。

本書評の概要
「当事者でない私たちに死者を悼み語る資格はあるのか」という普遍的問いをテーマに、第2章のナオの「傲慢ではないか」という正論と、それへの反論という倫理的対立の構造解説、著者自身の「絶対的な断絶」の認識と「それでも全部想像する」という誓いの紹介、第4章の「聴こえなくてもだ・死者と共にこの国を作り直していく」という宣言の意義の分析、終盤での「想像力から悲しみへ」という決定的転回の解説(悲愛という概念への到達)、「当事者性の問い」がウクライナ・ガザ・能登半島地震など現代の苦しみにも普遍的に当てはまるという射程の確認、そして「語る資格がない」というためらいが忘却への加担になりうるという著者の問題提起を展開。

注意

・Amazonのアソシエイトとして、双子のドラ猫は適格販売により収入を得ています。
・この記事は情報提供を目的としたものであり、医学的・法律的なアドバイス等の専門情報を含みません。何らかの懸念がある場合は、必ず医師、弁護士等の専門家に相談してください。
・記事の内容は最新の情報に基づいていますが、専門的な知見は常に更新されているため、最新の情報を確認することをお勧めします。
・記事内に個人名が含まれる場合、基本的に、その個人名は仮の名前であり実名ではありません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました