文字だけで音楽を聴かせた小説家——同じ曲が奏者によって全く別物になる理由——恩田陸 蜜蜂と遠雷

「文字を読んでいるのに、音が聴こえた」

恩田陸『蜜蜂と遠雷』を読んだ多くの読者が、この感覚を証言しています。

直木賞・本屋大賞をダブル受賞した史上初の作品。構想12年、取材11年、執筆7年をかけて書き上げられたこの小説は、音のない活字メディアで「音楽を鳴らす」という不可能を成し遂げた作品として評価されています。

しかし同時に、直木賞選考委員の高村薫は「どんなに大量の比喩が重ねられても、そこから音楽は立ち上がってこなかった」と厳しく批判しました。

「文字で音楽は鳴らせるのか」――この問いそのものが、本書を読む際の最大の面白さです。

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)
近年その覇者が音楽界の寵児となる芳ヶ江国際ピアノコンクール。自宅に楽器を持たない少年・風間塵16歳。かつて天才少女としてデビューしながら突然の母の死以来、弾けなくなった栄伝亜夜20歳。楽器店勤務のサラリーマン・高島明石28歳。完璧な技術と音...

1. なぜ「小説で音楽」が可能なのか――恩田陸の逆説

恩田陸はインタビューでこう語っています。「頭の中で曲を鳴らすというのは小説にしかできないこと」。

一見、これは逆説です。実際に音を出せるCDや映像に対して、音が出ない文字の方が優れているとはどういうことでしょうか。

答えは「読者の想像力」にあります。

CDで曲を聴くとき、あなたは演奏者が決めた唯一の解釈を受け取ります。映画版の演奏シーンは、実際にピアニストが弾いた音として届きます。しかし小説で「雨のしずくがおのれの重みに耐えかねて一粒一粒垂れているような演奏」と読むとき、あなたの脳内で鳴る音は、あなた自身の人生経験と感性で生み出された固有の音です。

読者は小説の中で、音楽を「再創造」している。

音楽評論家の青澤隆明はこの点を「ここで描かれた人たちの演奏がどういうものだったかは、読者の感覚や人生のなかでいま一度再創造しなくてはなりません」と表現しました。本書で描かれる演奏は、恩田陸が意図した音でも、実際のピアニストが弾いた音でもなく、あなたが読んだ瞬間に生み出すあなただけの音です。これが「小説で音楽を聴かせる」ことの本当の意味です。

2. 「同じ曲が全く異なる」――多視点構成の天才的な仕掛け

本書の最大の技法上の特徴が、同じ課題曲を複数の奏者と聴き手の視点から多層的に描く構成です。

直木賞選考委員の林真理子は選評で「ピアノのコンテストが主題であるから、複数のピアニストがそれぞれ複数の曲を弾く。しかし同じ描写がまるでないのである。これは本当にすごいことだ」と絶賛しました。

実際に本書では、第二次予選の課題曲「春と修羅」を4人の主要登場人物がそれぞれ演奏します。しかしその描写は全く異なります。ある奏者の「春と修羅」は「自然の暴力と殺戮を感じさせる」激しさを持ち、別の奏者の「春と修羅」は「おおらかな大地の安心感」として響く。同じ楽譜から、全く異なる宇宙が立ち上がります。

さらに同じ演奏を、演奏者自身、審査員、客席にいる他の奏者、音楽に詳しくない一般聴衆――それぞれの視点から描くことで、「一つの演奏が複数の真実を同時に持つ」という音楽の本質が立体的に浮かび上がります。

IT管理職の視点から言えば、これは「同じプレゼンが聴衆によって全く異なる情報として受け取られる」という現象に通じます。あなたが全力で伝えた内容が、受け取る側の経験と文脈によって全く別の意味になる――コミュニケーションの本質的な問いを、本書は音楽という素材で極限まで拡大して見せています。

3. 「ビロードで包んだかのよう」――比喩で音を視覚化する技術

恩田の文章技法の核心は、「音を絵にする比喩の密度」にあります。

「一音一音が深く、豊かでむき出しではなくビロードで包んだかのよう」

「明るく晴れた日の野原を、その中心から見渡したときのような、端のない、どこまでも続く感覚」

「雨のしずくがおのれの重みに耐えかねて一粒一粒垂れているような」

これらの表現は、聴覚情報を視覚・触覚・空間感覚に変換することで、音を「知らない読者」に伝えようとする試みです。クラシック音楽に詳しくなくても、この比喩群を読めば「どんな音かを感じた気になる」。これが本書の圧倒的な間口の広さの秘密です。

一方で、高村薫の「比喩がいかに積み重なっても音楽が立ち上がってこない」という批判も正当な視点です。「ビロードで包んだような音」という表現は美しいが、実際にどんな音なのかは分からない――比喩の連鎖が音楽の代替になっているか、それとも音楽を巧みに回避しているだけなのかは、読者自身が判断するしかありません。

北方謙三が「意味を把握する暇もないほど、言葉が畳みかけられてくる。言葉の洪水の中でそれがなし得ているというのは、新鮮な驚き」と肯定したのと、高村薫の批判は、まさに正反対の評価軸として対置されます。

4. 作中曲を流しながら読む体験――映画版との比較

本書の発売に合わせ、作中に登場する楽曲を集めたCDが発売されました。バッハ平均律、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2・3番、リスト「鬼火」など全51曲129トラック。

多くの読者が「演奏場面に差し掛かるたびに実際の曲を流しながら読んだ」と証言しています。この体験の特異性は、「CDが鳴っているのに、自分の頭の中でも別の音が鳴っている」という状態が生まれることです――実際の演奏と、文章が喚起した想像の演奏が同時に響き合う。

2019年の映画版は、実際のピアニスト4人が本作のための演奏を担当し、主人公4人の演奏として届けました。小説が「読者の脳内で再創造される音」だとすれば、映画版は「制作者が決定した唯一の正解の音」です。どちらが豊かな体験かは一概には言えませんが、「文字が持つ余白の豊かさ」という観点では、小説という形式が本書のテーマに最もふさわしいメディアであることが分かります。

5. 「構想12年・執筆7年」――恩田陸が時間をかけた理由

著者の恩田陸は浜松国際ピアノコンクールを2006年から2015年まで計4回取材し、「審査員でもないのに朝から晩まで演奏を聴き続けた」と担当編集者が証言しています。

なぜそれほどの時間が必要だったのでしょうか。「音楽を言葉にすること」の難しさに、恩田自身も苦しんでいました。連載中には「やはり音楽小説はむつかしいです。先が思いやられます」と担当編集者にメールを送ったとも伝えられています。

IT業界で言えば、これは「要件定義を7年かけた」プロジェクトです。通常なら「効率が悪い」と批判される開発サイクルですが、その長い時間が「構想12年の密度」として作品に宿っています。短時間で生み出されたものと、長年の熟成を経たものには、確かに質的な差があります。

本書を読み終えたとき、あなたは「音楽が聴こえた」と感じるかもしれません。あるいは「聴こえたように感じさせられた」と感じるかもしれません。どちらであれ、その体験自体が本書が問い続ける「音楽とは何か」への一つの答えです。ぜひ作中の楽曲を流しながら、あなただけの演奏を体験してください。

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)
近年その覇者が音楽界の寵児となる芳ヶ江国際ピアノコンクール。自宅に楽器を持たない少年・風間塵16歳。かつて天才少女としてデビューしながら突然の母の死以来、弾けなくなった栄伝亜夜20歳。楽器店勤務のサラリーマン・高島明石28歳。完璧な技術と音...

記事の要約

書誌情報
恩田陸『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎)のNR書評猫レビュー記事(#1508)。2016年刊行。第156回直木賞・第14回本屋大賞ダブル受賞。史上初の快挙。累計150万部超。上下巻構成の上巻は予選から二次予選途中まで。

本書の核心
「音のない文字メディアで音楽を鳴らす」という逆説的挑戦。読者が脳内で音楽を「再創造」するという、小説にしかできない音楽体験の仕組み。同じ課題曲を複数の視点から描くことで「一つの演奏が複数の真実を同時に持つ」という音楽の本質を立体化する技法。

本書評の概要
「頭の中で曲を鳴らすのは小説にしかできない」という恩田の発言が示す「読者による音楽の再創造」という逆説、多視点構成による「同じ曲が奏者によって全く別物になる」体験(林真理子の絶賛とその仕掛け)、聴覚を視覚・触覚に変換する比喩技法の評価と高村薫の批判を対置した賛否の論点化、作中曲CDと映画版の比較(「余白の豊かさ」vs「唯一の正解」)、構想12年・執筆7年という時間のかけ方が生む作品の密度を中心に論じた。IT管理職への架橋として「同じプレゼンが聴衆によって異なる情報として受け取られる」コミュニケーションの本質を展開した。

NR書評猫1508恩田陸蜜蜂と遠雷(上)

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