「あれ、ちゃんと説明したのにな……」
プロジェクト会議のあと、廊下でそう一人ごちたことはありませんか。丁寧に資料を作り、順を追って話したはずなのに、相手の顔には「?」がぼんやり浮かんでいた。あるいは、了解してくれたと思っていたのに、後日まったく違う方向で動いていた――こうした「伝わらなかったすれ違い」は、ビジネスの現場でじつに頻繁に起きています。
これを「相手の理解力の問題だ」と片づけてしまうのは、少し待ってください。問題の多くは、話し手の側にある「知識の呪縛」――自分がわかっていることは相手もわかるはずという無意識の前提にあるからです。
元日本マイクロソフト業務執行役員として「伝説のマネージャー」の異名をとる澤円氏が、2026年1月に出版した『The Giver 人を動かす方程式』のなかで、この問題を解決する最強のメソッドとして「たとえ話」を挙げています。本記事では、なぜたとえ話がこれほど力強いのか、そしてどう使いこなすのかを、じっくりお伝えします。
1. 「伝えた」と「伝わった」は、まったく別のことだった
多くのビジネスパーソンが気づかないまま抱えている誤解があります。それは「説明した」=「伝わった」という思い込みです。
たとえば、あなたが新しい業務フローを部下に説明したとします。部下は「わかりました」とうなずいた。翌日、部下が古いやり方で作業を続けていた。これはよくある話ですが、ここで多くの上司は「なぜ話を聞いていなかったのか」と考えてしまいます。でも実際には、部下はちゃんと話を聞いていた。ただ、「わかった」と感じた内容が、上司の意図とずれていただけなのです。
これは誰の落ち度でもなく、人間の認知の仕組みに由来する問題です。人は、情報を受け取るとき、自分がすでに持っている知識のフィルターを通して解釈します。話し手と聞き手の経験や専門知識が違えば、同じ言葉でも頭の中に浮かぶ絵が違ってくる。澤氏はこの現象を「認知の分断」と呼び、Giverとしてのコミュニケーションでは、この分断をいかに埋めるかが問われると説きます。
2. たとえ話が「認知の分断」を一瞬で埋める理由
では、なぜたとえ話がこの分断を解消できるのでしょうか。
人間の脳は、完全に新しい概念を理解しようとするとき、大きなエネルギーを必要とします。知らない場所に情報を格納しようとするようなもので、どこに置けばいいかわからず、混乱しやすい。これが理解の難しさの正体です。
ところが、すでに知っている概念と結びついた情報は、脳にとってはるかに受け入れやすい状態になります。「ああ、あれに似ているんだね」という感覚が生まれた瞬間、脳は既存の引き出しを開けて、新しい情報をそこに入れることができるからです。
たとえ話はまさに、この「既存の引き出し」を活用する技術です。相手が日常的に知っている事柄を橋として使い、未知の概念を運んでくる。この橋が確かであればあるほど、理解はスムーズになり、「なるほど!」という腑に落ちる感覚が生まれます。
腑に落ちた瞬間、人は自発的に動き始める。
これが、澤氏がたとえ話を「人を動かす最強メソッド」と呼ぶ本質的な理由です。
3. 「相手を見ること」から、たとえ話は生まれる
「たとえ話を使おうと思っても、とっさに浮かんでこない」――多くの方がこの壁にぶつかります。それはたとえ話が「自分の知識」から生み出そうとするからかもしれません。
澤氏が本書で示すのは、優れたたとえ話は「相手の世界」から生まれるということです。相手がどんな仕事をしていて、何が日常の景色で、どんなことに親しみを感じているか――その観察が、最適なたとえを見つける鍵になります。
相手がスポーツが好きならスポーツのたとえが届きます。料理をよくする人なら料理のたとえが刺さりやすい。家族と過ごす時間を大切にしている方には、家庭の日常に絡めたたとえが共鳴します。逆に、相手をまったく観察せずに自分の好きな分野のたとえを持ち出しても、かえって話が遠回りになることもあります。
つまり、よいたとえ話を用意するためには、まず相手に関心を持つことが不可欠です。これは、本書のテーマであるGiver――与える人――の姿勢そのものです。相手を深く知ろうとする気持ちが、伝える力の根っこにある、と澤氏は語りかけています。
4. 職場でよく起きる「失敗するたとえ話」の共通点
たとえ話には、効く使い方と効かない使い方があります。失敗するたとえ話にはいくつかの共通点があるので、確認しておきましょう。
まず、相手が知らない領域のたとえを使ってしまうケースです。「これはちょうど、株のオプション取引みたいなものでね」と言っても、相手が株に縁のない人であれば、理解の橋ではなく新たな謎が増えるだけになります。たとえ話が分かりにくくなったとき、多くの場合、たとえの対象自体が相手に馴染みのないものになっています。
次に、たとえが複雑すぎるケースです。「AはBのようで、BはCの構造に似ていて……」と重ねていくと、本筋よりたとえの説明に時間がかかってしまいます。シンプルで一言で伝わるたとえほど、実際には強力です。
そして、たとえに引っ張られすぎて本題から離れてしまうケースも少なくありません。たとえ話はあくまでも橋であり、渡り終えたら本来の目的地――伝えたい本質――に戻ることが大切です。
5. 今すぐ使える「たとえ話」の実例集
では、IT職場でよく使われる専門的な概念を、たとえ話で言い換えるとどうなるか、いくつか具体例を見てみましょう。
「バックログの優先順位付け」を説明するとき。「冷蔵庫の中の食材を使う順番を決めるようなものです。傷みやすいものから先に使わないと、せっかくの材料が無駄になってしまう」――このたとえ話で、非技術職の方でも考え方をすぐ掴めます。
「セキュリティ認証の多要素化」を説明するとき。「家の鍵を二重にするのと同じ発想です。一つの鍵が破られても、もう一つがあればすぐには入れない」――シンプルですが、概念の本質が一言で伝わります。
「アジャイル開発のイテレーション」を説明するとき。「料理のレシピを少しずつ試しながら改善するイメージです。最初から完璧な味を目指すのではなく、食べてみて味をみながら調整を重ねていく」――この例えなら、開発の外側にいる人にも意図が届きます。
いずれも、難しい技術用語をゼロにして、相手の日常の景色に概念を置き換えているのがポイントです。
6. たとえ話力を日常で鍛える三つの習慣
たとえ話は練習で確実に上手くなります。日常の中で少し意識するだけで、引き出しはどんどん増えていきます。実践しやすい習慣を三つご紹介します。
一つ目は、自分の仕事の概念を「10歳の子に説明するなら?」と問い直す習慣です。この問いを持つだけで、不必要な専門用語が自然に剥がれ落ち、本質だけが残ります。残ったものが、たとえ話の核になります。
二つ目は、日常生活の出来事とビジネスの構造を結びつけるゲームです。料理しながら「このレシピの手順はプロジェクトの工程表に似ているな」、通勤電車で「この路線の乗り換え案内はシステムのルーティング設計に似ているな」と遊び感覚でつなげてみましょう。これを続けると、たとえ話のストックが自然と蓄積されます。
三つ目は、会議でひとつだけたとえ話を意識して使ってみることです。上手くいったもの、いまいちだったものを振り返ることで、どんなたとえが刺さるかの感覚が磨かれていきます。最初はぎこちなくても、繰り返すうちに体に馴染んできます。
まとめ:伝わる言葉は、相手への関心から生まれる
澤円氏の『The Giver 人を動かす方程式』が伝えるたとえ話の本質は、単なる説明技術にとどまりません。それは「相手を知り、相手の世界に歩み寄る」というGiverの姿勢そのものです。
どれだけ正確な情報を届けても、相手の頭に絵が浮かばなければ、それは伝わっていないのと同じです。一方で、たった一つのたとえ話が「あ、そういうことか!」という閃きを生んだとき、そこから生まれる行動と信頼は、長い説明の何倍もの価値を持ちます。
今日の仕事の中で、一度だけ試してみてください。「これを相手の日常に当てはめると?」という問いを持つだけで、コミュニケーションの景色はきっと少し変わり始めます。

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