「このプロジェクト、たぶん大丈夫だろう」――そう思いながら進めていた案件が、締め切り直前に崩れた経験はありませんか。部下に任せていた業務が、確認してみると想定外の方向に進んでいた。経営層へのプレゼンで、「もし反対されたら」という準備を後回しにしていたら、案の定、鋭い質問に詰まってしまった。「まあ何とかなるだろう」という楽観的な見通しは、忙しい管理職にとって最も手軽な判断です。しかしそれが、最もリスクの高い判断でもあります。
状況が不明瞭なとき、人間は無意識に「よい方向に進むはず」と考えようとします。これは心理学でいう「正常性バイアス」と呼ばれる働きです。危機的な事態が起きそうなとき、「自分には関係ない」「そこまで悪くはならない」と思い込もうとする、脳の自己防衛の仕組みです。昇進したばかりで、部下からの信頼も、経営層からの評価も、どちらも失いたくない状況にある管理職こそ、この楽観バイアスに陥りやすいのです。
浅野潔著『米国海軍大学元教官が教える自律型チームのつくり方』は、こうした問題に対して、軍人ならではの実践的な答えを提示しています。本書が紹介するのは「ワーストケース思考」――あいまいな状況ほど、最悪の事態を想定してから動くという、一見後ろ向きに見えて実は最も合理的な思考法です。今回は、この考え方を職場と家庭にどう応用するかを、じっくりと読み解いていきます。
「大丈夫だろう」が招く静かな崩壊――楽観バイアスの正体
管理職として経験を積むにつれ、「これはいける」「何とかなる」という感覚が研ぎ澄まされていくことがあります。しかしその感覚は、本当に経験から来る洞察なのでしょうか。それとも、不確かな状況を直視することへの回避なのでしょうか。
人間が曖昧な状況に直面したとき、脳は二つの選択肢を突きつけられます。不安を正面から引き受け、最悪のシナリオを考え抜くか。あるいは「なんとかなる」と自分に言い聞かせ、考えることをやめるかです。後者の方が圧倒的に楽です。しかし、その「楽」が積み重なって、気づかぬうちに組織の地盤を緩めていきます。
本書が参照する軍事組織において、指揮官は任務の前に必ず「ワーストケース分析」を行います。敵が最も悪い行動を取ったとき、どうなるか。天候が最悪の状態になったとき、どう対応するか。兵站が想定以上に遅れたとき、代替手段はあるか。これは悲観論ではありません。最悪を想定しておくことで、いざそれが起きたとき、指揮官は「想定の範囲内」として冷静に対処できる。それが現場の安定と部隊の信頼を生むのだ、と著者は言います。
楽観は希望だが、ワーストケース思考は準備だ
部下からの信頼を得られていないと感じているなら、問いかけてみてください。あなたは部下の前で「最悪の場合どうするか」を話したことがありますか。想定外の事態が起きたとき、「そんなはずじゃなかった」とあわてる上司と、「その場合はこう動く」と即座に方針を示す上司とでは、部下が感じる安心感がまったく異なります。
「VUCA」と曖昧性――現代の職場が軍の訓練場に似てきた理由
ビジネスの世界でよく使われるようになった「VUCA」という言葉は、もともと冷戦後の米軍が自らの置かれた環境を表現するために使い始めた概念です。V(変動性)、U(不確実性)、C(複雑性)、そしてA(曖昧性)――この四つの要素が、現代の職場とかつての戦場を結びつけています。
本書の著者は、VUCAの四つの要素それぞれに対応する思考法を提示しています。その中でも、「A(曖昧性)」への対応としてワーストケース思考が位置づけられています。
なぜ曖昧な状況にこそワーストケース思考が必要なのでしょうか。答えは単純です。情報が整っているときは、正確な判断ができます。しかし情報が不足し、状況が霧に包まれているときこそ、人間の判断は歪みやすい。不確かさを「きっと大丈夫」という希望で埋めようとする力が働くからです。
霧の中でこそ、最悪の地図が役に立つ
曖昧な状況下で「最悪何が起きるか」を先に想定しておくことは、その霧の中にあらかじめ道標を立てておくことに似ています。視界がゼロになっても、道標があれば歩ける。ワーストケース思考の本質は、そこにあります。
あなたが担当するプロジェクトで、「最悪この案件が失注したら?」「最悪このメンバーが離脱したら?」という問いを、先に自分の中で整理しておいたとします。そのとき、もしその事態が起きても、あなたは驚かず、慌てず、次の手を打てます。部下の目には、それが「動じない上司」として映ります。
ワーストケース思考と「心の安定」――なぜ軍人は危機に動じないのか
本書の著者が長年の海上自衛隊勤務と米国海軍大学での教育経験から学んだことの一つに、「危機においても動じない指揮官は、楽観的な人間ではなく、最悪を最も深く考え抜いた人間だ」という洞察があります。
一見すると矛盾しています。最悪の事態を考え抜けば、不安が増すばかりではないか――そう思う人は多いでしょう。しかし実際は逆です。人間が最もパニックに陥るのは、「想定していなかったことが起きた瞬間」です。準備がないところに現実が来ると、思考が止まります。反対に、「この可能性があるとわかっていた」という感覚は、不思議なほど人を落ち着かせます。
心理学の領域では、「心配の具体化」という考え方があります。漠然とした不安は人を消耗させますが、「最悪こうなる。そのときはこう動く」と具体化した瞬間、不安はエネルギーに変わります。軍事訓練において兵士が繰り返す「最悪のシナリオの演習」は、まさにこの原理を応用したものです。
プレゼンの前夜に「もし反論されたら?」「もし時間が足りなくなったら?」「もしデータに誤りを指摘されたら?」を丁寧に考え抜いておく。これは不安を増やすことではありません。不安を管理する技術です。
管理職が「最悪の事態」を部下に伝えるべき理由
ワーストケース思考は、個人の心の準備としてだけではなく、チームのマネジメント手法としても機能します。
多くの管理職は、部下の前では「大丈夫だ、なんとかなる」と前向きな言葉を選ぼうとします。それは配慮のように見えて、実はチームを危機に対して脆弱にする判断です。最悪の事態に備えた対話をしていないチームは、それが起きた瞬間、一斉にパニックに陥ります。
本書が示す「自律型チーム」の本質は、リーダーが「理想の状態(エンドステート)」と同時に「最悪の状態への備え」をチームと共有するところにあります。部下に「もしこの案件が想定通りに進まなかった場合、どう判断してほしいか」という基準を渡しておくこと――これが、現場での自律的な意思決定を生む土壌です。
準備を共有したチームは、嵐の中でもそれぞれが動ける
想定外の事態が起きたとき、部下が「この場合はリーダーの考えに基づいてこう判断する」と動けるチームと、「上司に聞かなければ何もできない」と固まるチームとでは、組織の危機対応力に雲泥の差があります。ワーストケース思考を部下と共有するリーダーは、自らの不在時にも組織を動かし続けられる人間です。
「家庭」というフィールドでのワーストケース思考
ワーストケース思考は、職場だけで機能する技術ではありません。家族との関係においても、同じ原理が働きます。
「妻との会話がかみ合わない」「子どもとの接し方がわからない」という悩みを抱える管理職は多いです。その根にある一つの問題が、「家庭においても楽観バイアスに頼りすぎている」ことかもしれません。「今日は何も問題ないだろう」と思って帰宅したら、実は妻が長期間にわたって孤立感を感じていた。「子どもは元気だろう」と思っていたら、学校でひっそりと問題を抱えていた。
最悪の事態を想定するとは、「うちの家庭は崩壊するかもしれない」と脅えることではありません。「もし今、妻がとても消耗していたとしたら、私は何をできるか」「もし子どもが何か言えないことを抱えていたら、どう話しかければよいか」と、先に問いを立てておくことです。
その問いを持って帰宅したとき、あなたの帰り方は変わります。玄関を開けて「お疲れ様」と言う声のトーンが、少し柔らかくなります。夕食の場で、子どもの顔を見る時間が、少し長くなります。小さな変化が、家族の間に流れる空気を少しずつ変えていきます。
不確かな時代に「静けさ」を手に入れる技術
本書が伝えるワーストケース思考の真価は、危機の予防ではなく、危機の中での「静けさ」の獲得にあります。
現代の管理職が直面している環境は、かつてないほど不確かです。組織の方針が変わる速度が上がり、市場の変動は予測しにくく、部下の価値観は多様化し、家庭の事情も複雑になっています。こうした環境の中で、リーダーに求められる資質として著者が強調するのは、スキルよりも「心の安定」です。
そして心の安定は、楽観から生まれるのではなく、最悪を直視し、それへの備えを持つことから生まれます。嵐の前に碇を下ろした船は、波に揺れながらも流されない。ワーストケース思考とは、その碇を持つための技術です。
「もし最悪の事態が起きたとしても、自分にはこの手がある」――その感覚が、動揺の中でも判断力を保ち、部下に安心感を与え、家族に温かく向き合う余裕をつくります。最悪を考え抜いた者だけが、現実がどう転んでも静かでいられる。浅野潔が海上自衛隊と米国海軍大学で身につけたその智慧は、40代の管理職が今日から使える、最も実践的なメンタル管理術の一つです。ぜひ本書を手に取り、ワーストケース思考を自分の思考習慣の中に組み込んでみてください。
記事の要約
書誌情報
浅野潔『米国海軍大学元教官が教える自律型チームのつくり方』のNR書評猫レビュー記事(#2239)。フォレスト出版、2026年4月9日刊行。元海上自衛隊作戦教官・米国海軍大学元教官による組織マネジメント専門書。
本書の核心
VUCA時代における「A(曖昧性)」への対応として、楽観的な希望的観測を排し、最悪の事態を先に想定・準備しておく「ワーストケース思考」を軍人ならではのメンタル管理術として解説する。
本書評の概要
正常性バイアスによる楽観思考が、管理職の判断とチーム運営にもたらすリスクを指摘。ワーストケース思考が「不安の増加」ではなく「心の安定の獲得」につながる逆説的な原理を、心理学の知見とともに解説。部下への情報共有によるチームの自律性向上、家庭でのコミュニケーション改善への応用も展開し、40代IT管理職ペルソナが抱える三つの悩み(部下との信頼・プレゼン・家族)に橋渡しする構成。

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