「ルールを誰より守る者が最も遠くへ行く」——野宮有『殺し屋の営業術』が教えるリスク管理の逆説

仕事でミスが続いているわけでもないのに、なぜか部下からの信頼が薄い。プレゼンの内容は準備したはずなのに、いざという場面で想定外の質問に詰まってしまう。家庭でも、気づいたら小さな約束を破り続けていて、妻から「また」という顔をされる――そんな積み重ねに心当たりはないでしょうか。

これらに共通するのは、リスクの見落としです。大きな失敗ではなく、誰もが軽視しがちな小さな抜け漏れが、信頼という名の土台をじわじわと削っていきます。40代の管理職が直面する悩みの多くは、実は突発的な大事故よりも、日常の中に潜む小さなリスクへの無頓着さから生まれています。

野宮有の小説『殺し屋の営業術』には、暗殺現場へ向かう途中に交通違反で警察に止められるリスクを極限まで減らすため、車両の法定点検を完璧に行い、制限速度を厳守して通勤する殺し屋が登場します。違法行為を生業にしながら、表社会のルールを誰よりも誠実に守るというパラドックスは、リスク管理の本質を鋭くえぐり出しています。

Amazon.co.jp: 殺し屋の営業術 (Audible Audio Edition): 野宮 有, 外崎 友亮, Audible Studios: Audibleオーディオブック
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リスクマネジメントとは何か――小さな油断が大きな失敗を呼ぶ

リスクマネジメントとは、起こりうる問題をあらかじめ特定し、その影響を最小限に抑えるための行動を取り続けることです。企業経営の文脈でよく語られますが、個人の職場行動や日常生活にも同じ原則が当てはまります。

多くの人が誤解しているのは、リスク管理とは大きなトラブルを防ぐことだという思い込みです。実際には、最も致命的な失敗の多くは、誰もが当然と思って見落とした些細なところから始まります。

本書の殺し屋が徹底して制限速度を守る理由は、速度違反で警察に止められるリスクを排除するためです。職業柄、その後の展開は通常の交通取り締まりより遥かに深刻なことになりかねません。だからこそ、ほとんどのドライバーが無意識に許容している小さな違反すら、彼の業務においては致命的なリスクとして管理されます。

小さなリスクほど見落とされやすく、影響が大きいのです。

管理職として部下を率いる立場でも、同じことが言えます。重大なミスの多くは、誰かが当然やっているだろうと思っていた確認作業が、実は誰もやっていなかったという状況から生まれます。

殺し屋が制限速度を守る理由――コンプライアンスの逆説

本書の最もユーモラスで、同時に最も鋭い場面は、この制限速度厳守の描写です。違法行為を仕事にしている人物が、法律を誰よりも丁寧に守っているというコントラストには、笑えるようでいて確かな論理があります。

大きなリスクを取って生きている者ほど、コントロールできる小さなリスクを丁寧に潰していく。この発想は、プロフェッショナルとして仕事に向き合う姿勢と重なります。

IT業界の管理職でいえば、システム障害のような大きなリスクは完全にゼロにはできません。しかし、定期的なバックアップの確認、権限管理の点検、議事録の共有漏れをなくすといった地道な習慣は、自分の意志で完全にコントロールできます。

殺し屋が車両点検を欠かさないように、管理職が会議の前に配布資料のミスを丁寧に確認すること。これは地味ですが、「この人は細部まで気を配っている」という印象を部下や上司に植えつけ、長期的な信頼の源になります。

見えないところで積む丁寧さが信頼を作ります。

コンプライアンスとは罰則を避けるためのものではなく、自分が信頼される存在であり続けるための習慣です。本書のパラドックスはその事実を、極端な例で照射しています。

部下からの信頼はルールを守ることから始まる

部下との関係に悩む管理職に多いのが、コミュニケーション技術を磨こうとするあまり、基本的な約束を守るという根本を見落とすケースです。

面談で言ったことを翌週には実行しない。業務の指示を出したまま、フォローアップをしない。チームで決めたルールを、上司である自分だけが破る――こうした小さな行動の積み重ねが、部下の中で「この人の言葉は信用できない」という認識を形成します。

本書の殺し屋は、制限速度を守るだけでなく、車両の法定点検を完璧に行います。誰も見ていない状況でも、自分で決めた基準を下げない。その一貫性が、彼のプロフェッショナリズムを支えています。

部下が上司を信頼するのは、華やかなリーダーシップの瞬間ではなく、誰も見ていない日常の行動を観察した積み重ねによってです。

朝礼で言ったことを夕方には実行する。メールへの返信期限を自分から守る。他部署との約束を部下の前で誠実に果たす。こうした小さな一貫性が信頼を積み上げます。

リスク管理の本質は、約束という形で生まれた期待を裏切らないことでもあります。

プレゼンのリスクを事前に潰す技術

上司へのプレゼンがうまくいかない原因のひとつは、準備のリスク管理が不十分なことです。内容の論理は整っているのに、想定外の質問でペースを乱される、資料のフォーマットが場の雰囲気と合っていない、時間配分を誤って結論まで辿り着けない――こうした失敗は、事前に洗い出せたリスクです。

殺し屋が現場へ向かう前に車両点検を行うように、プレゼン前のリスク点検をルーティンにしてみましょう。

まず想定質問を10個書き出します。自分の提案に対して懐疑的な立場から考えると、どんな反論が来るかを先に洗い出しておきます。次に、プレゼンの最初の30秒と最後の1分を声に出して練習します。開始直後と締めくくりは、緊張の影響を最も受けやすい場面だからです。そして資料の誤字脱字と数値の根拠を、前日に必ず再確認します。

これらは地味な作業ですが、本番での想定外を減らし、自信を持って話せる状態を作ります。

準備のリスク管理が本番の余裕を生みます。

制限速度を守って安全に現場に辿り着く殺し屋のように、プレゼン当日を万全の状態で迎えるために、前日の点検こそが最大の備えです。

家庭における小さなリスクの見落としが関係を壊す

リスク管理の発想は、職場だけでなく家庭にも静かに機能しています。そして多くの場合、家庭内のリスクは職場以上に見落とされがちです。

妻との約束を忘れる。子どもの学校行事の日程を確認しないまま仕事を入れてしまう。疲れているからという理由で、家族との会話を後回しにし続ける――これらはひとつひとつは些細なことに見えますが、積み重なると「この人は家族のことを軽く見ている」という印象を作ります。

本書の殺し屋は、業務に関係するリスクはどれだけ小さくても管理します。同じ姿勢を家庭に持ち込むとすれば、家族に関わる約束や予定を、仕事と同じ真剣さで管理することになります。

スマートフォンのカレンダーに家族の予定を仕事と並べて入力する。妻に言ったことをメモしておく。子どもに約束したことは必ずその週に実行する。こうした習慣は、家族から見て「自分たちのことを大事にしてくれている」というシグナルになります。

関係が壊れるのは大きな出来事よりも、小さなリスクの見落としの蓄積によることのほうが多いのです。

リスクを管理する習慣が信頼を積み上げる

本書の殺し屋が描く逆説――違法行為者であるにもかかわらず、表社会のルールを誰よりも厳格に守る姿――が伝えているのは、プロフェッショナルとはコントロールできることを完全にコントロールする者だということです。

管理職として、コントロールできないことは確かに存在します。市場の変化、組織の方針転換、予期しない人事異動。これらに振り回されることもあるでしょう。しかし、自分の日常行動における小さなリスクは、今日から完全に管理できます。

約束を守る。資料の確認を怠らない。部下への連絡を先送りしない。家族との予定を優先する。これらはどれも、特別な才能や知識を必要としません。必要なのは、それを習慣として続ける意志だけです。

殺し屋が制限速度を守り続けるのは、一度の違反が取り返しのつかない結果を招くからです。あなたが小さな約束を守り続けるのは、一つひとつの積み重ねが、部下、上司、家族との取り返しのつかない信頼を作るからです。

野宮有の極端なフィクションが映し出すのは、プロフェッショナルが持つ静かな徹底さです。大きな仕事を成し遂げる前に、誰も見ていない場面での自分の行動を見直すこと――その習慣から、あなたの信頼は始まります。

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NR書評猫1423_野宮有_殺し屋の営業術

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