「なぜここにいるのか分からないまま、走り続けている」——伊坂幸太郎『さよならジャバウォック』が描く不条理な彷徨

「なんでこんな仕事をしているのだろう」と、ふと思ったことはないでしょうか。昇進して責任は増えた。部下も増えた。でも、毎日こなしているこの業務が、何のためにあるのか、どこへ向かっているのか、ときどき分からなくなる。会議で発言し、資料を作り、判断を下す。それを繰り返しながら、「自分はいったいどこへ進んでいるのか」という問いが、心の奥に澱のように溜まっている――。

伊坂幸太郎の最新長編小説『さよならジャバウォック』には、そのような「目的を見失った彷徨」を、そのまま物語の構造にした章があります。主人公の量子たちは、殺したはずの夫の死体を山中に運び込み、論理的な説明がつかないまま謎の大男から逃げ惑います。なぜ山なのか。なぜ逃げているのか。何をすれば終わるのか。明確な答えのないまま、ただ走り続けるしかない状況――それが本作の山中パートの本質です。

不条理なロードムービーのような、この彷徨の描写が示しているのは、登場人物たちの内的な迷いと恐怖の具現化です。目的を失った人間が、それでも足を動かし続けるとはどういうことか。その問いは、現代の管理職が仕事や家庭で直面する根深い問題と、驚くほど重なります。

さよならジャバウォック
2026年本屋大賞ノミネート!! 幼稚園から帰ってくる息子に、死体を目にさせてはいけない――。 夫から言葉の暴力を受けていた量子。自宅マンションで咄嗟に夫を殺してしまい途方に暮れていたところ、2週間前に近所でばったり会った大学時代の後輩・桂...

「目的のない彷徨」がなぜリアルに感じられるのか

量子たちの山中での逃避行が奇妙な説得力を持つのは、不条理でありながらどこか「分かる」感覚があるからです。目的が明確でないまま追い詰められた状況で、それでも動き続けなければならない。立ち止まればもっと悪いことになる気がする。だから走る。でも、どこへ向かっているのかは分からない。

この感覚は、職場でのある種の状態に近いものがあります。プロジェクトが始まったときの熱量はどこへいったのか。部下を束ねながら、自分がこのチームを何のためにどこへ連れていこうとしているのか、言葉にしようとするとうまく出てこない。業務は回っている。成果も出ている。でも「なぜこれをやっているのか」という問いに答えられない状態。

本作の登場人物たちが山中を彷徨するシーンの持つ圧迫感は、この「目的の不在」が人間にとっていかに本質的な苦しみをもたらすかを、身体的な感覚として読者に伝えます。方向は定まっていなくても足だけは動いている――そのリアリティが、多くの読者の胸を刺します。

目的が見えないチームを、どう前に進めるか

管理職として最も消耗するのは、チームの方向性が見えなくなっているときです。それは外部環境の変化かもしれない。あるいは組織の方針が変わって、自分のチームの役割が曖昧になったのかもしれない。部下からは「結局、何を優先すればいいんですか」という問いが来る。しかし上からの指示も、まだはっきりしない。

量子たちが山中で取る行動は、完全に合理的ではありません。でも彼女たちは、今できることを一つずつやっていきます。次の一手だけを考え、とりあえず今夜を乗り越えることに集中する。その姿には、大きな目的が見えないときの人間の現実的な賢さが宿っています。

部下との信頼は、大きなビジョンを語ることだけで生まれるわけではありません。方向が見えないときに「とりあえず今週、これをやろう」と言い切れる上司、足元の一手を一緒に考えてくれる上司に、人は安心して付いていきます。彷徨の最中にこそ見える、小さな確かさを拾い上げる力が、不確実な時代のリーダーシップの核心の一つです。

「なぜこれを伝えるのか」――プレゼンの目的を取り戻す問い

プレゼンにおいても、「目的の不在」は致命的です。データは揃っている。スライドも作った。話す内容も練習した。しかし、「なぜ自分がこれを今ここで話すのか」という核心が揺らいでいると、どれだけ丁寧に説明しても聞き手の心に届かない。量子たちが山中を走りながらも「なぜここにいるのか」を言葉にできない状態と、構造的には同じです。

優れたプレゼンは、目的の明確さから生まれます。自分が何を変えたいのか、誰に何を伝えることで何が動くのかという問いに、自分自身が答えられているかどうか。その明確さが言葉に宿るとき、資料の精度以上の説得力が生まれます。

本作の山中パートが示す「目的なき彷徨の苦しさ」は、裏側から見れば「目的があることの力」を浮き彫りにしています。プレゼンの準備として最も重要なのは、スライドを磨くことではなく、「なぜこれを話すのか」という問いに腹の底から答えられる状態を作ることかもしれません。

家庭での「ただこなしている感覚」に気づくとき

この「目的のない彷徨」という感覚は、家庭においても静かに潜んでいることがあります。帰宅して、食事をして、子どもの宿題を見て、妻と短い会話をして、就寝する。その日常が続く中で、ふと「自分は家庭でどんな父でありたいのか」「この家族との時間に、自分は何を大切にしたいのか」という問いに答えられなくなっていることに気づく瞬間。

量子が山中を走りながらも息子の翔のことを絶えず思い続けるのは、彷徨の中にあっても「帰るべき場所」「守るべきもの」を失っていないからです。行き先が見えなくても、何のために走っているかの核心だけは手放していない。

家族との時間が「なんとなくこなしている」と感じるなら、それは関係が悪いからではなく、その時間の「目的」を意識できなくなっているサインかもしれません。週末に子どもと何かを一緒にするとき、「この時間で何を伝えたいのか」という小さな問いを持つだけで、同じ時間の質が変わります。

不条理の中でも「次の一手」を選び取ること

本作の山中パートが最終的に伝えるのは、不条理さへの諦めではありません。目的が見えなくても、追い詰められていても、人間は選択し続けるという事実です。量子たちは混乱しながらも、今できることを選び取り、次の瞬間に向けて動き続けます。その姿には、不条理な状況に抗う人間の尊厳があります。

どんな組織でも、目的が霞むときがあります。どんな家庭でも、何のために頑張っているのか分からなくなる夜があります。そのような瞬間に、「次の一手だけ考える」という姿勢が人を支えます。大きな目的が見えなくても、目の前の一人に誠実に向き合う。その積み重ねが、やがて「自分はここにいたのだ」という確かさを作っていきます。

伊坂幸太郎が描く「走ることの意味」

伊坂が本作の山中パートに込めたのは、単なる緊迫感の演出ではありません。不条理な状況の中でも、あるいは不条理だからこそ、人間がどのように動き続けるかという問いへの、静かな肯定です。

走ることの意味が見えなくても走り続けられる人間――その姿に、読者は奇妙な共感と勇気を覚えます。あなたが今、仕事でも家庭でも「なぜここにいるのか」が分からなくなりかけているとしたら、本書の山中の彷徨は、不思議な形でその問いに寄り添ってくれるでしょう。

さよならジャバウォック
2026年本屋大賞ノミネート!! 幼稚園から帰ってくる息子に、死体を目にさせてはいけない――。 夫から言葉の暴力を受けていた量子。自宅マンションで咄嗟に夫を殺してしまい途方に暮れていたところ、2週間前に近所でばったり会った大学時代の後輩・桂...

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